できごと

乳母と捨て子

Wet nursing and foundlings
AD1780年頃
重要度 4
ロシア帝国大英帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国ネーデルラント連邦共和国ポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェー神聖ローマ帝国エジプトオーストリア帝国フランス王国スペインポーランド・リトアニア共和国モロッコAlgiersイギリスアイルランド王国TunisBrandenburgヴェネツィア共和国NaplesTripolitaniaCyrenaicaプロイセンAD1780年頃パリ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1780年頃の版図を描いています(25勢力)。

概要

18世紀のパリで、生まれた子の大半が、田舎の乳母に預けられた。ある推計では、年に2万人の新生児のうち、母が自ら育てたのは1割に満たない。職人の妻も働かねばならず、乳を与える時間がない。乳母は乳の出る限り何人も預かり、赤子は荷車で運ばれた。死亡率は極めて高く、地域によっては半数を超えた。同じ時期、捨て子養育院に年に数千人が置かれた。誰かが乳を与えなければ、子は生きない。その労働に、名も、記録も、ほとんど残っていない。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

本文

1780年のパリについて、よく引かれる数字がある。警察総監ルノワールが残したとされる記録で、その年パリで生まれた子はおよそ二万一千人、そのうち母親が自分の乳で育てたのは千人に満たず、残りの大半は田舎の乳母のもとへ送られたという。数字の正確さには議論があるが、母親が自ら授乳する子がごく少数だったという比率の大きさは、ほかの史料とも食い違わない。18世紀のパリでは、生まれた子を他人の乳で育てるのが当たり前だった。

理由はいくつもあった。まず、母親が働かなければならなかった。パリの職人や小商人の家では、妻も店番や仕立てや夫の仕事の手伝いで手が離せない。乳を与えるには数時間ごとに仕事を止めなければならず、乳を搾って保存しておく方法もまだ無い。次に、上流の家では乳母に預けるのが習いで、自分で授乳するのは品の無いこととさえ見られていた。授乳しているあいだは妊娠しにくいため、跡継ぎを多く産みたい家ほど早く乳母に預けた、という事情も指摘されている。そして値段である。パリ市内に住み込む乳母は高く、田舎の乳母は安い。だから職人の家の赤子は、ノルマンディーやピカルディー、ブルゴーニュの農村まで、ときに百キロを超える道のりを送られた。

乳母ロンゲ・ド・ラ・ジロディエールに抱かれる幼いルイ14世
乳母ロンゲ・ド・ラ・ジロディエールに抱かれる幼いルイ14世Wikimedia Commons Charles et Henri Beaubrun anciennement attribué à Anonyme France XVIIe siècle · Public domain

その運び手が、「ムヌール」と呼ばれる仲介業者だった。乳母を探して赤子を引き合わせ、運び、報酬の受け渡しを請け負う。赤子は籠に入れられ、藁を敷いた荷車に何人もまとめて積まれた。冬は凍え、夏は日に照らされ、道中の数日、十分な乳は与えられない。運ばれる途中で死ぬ子も少なくなかった。

預かる乳母は、自分の子を産んだばかりの農村の女性である。報酬は月に数リーヴルで、現金の乏しい農家にとっては貴重な収入だった。乳の出る限り、何人も預かることもあった。自分の子と預かった子のどちらにも乳が足りなければ、どちらかが飢える。乳が止まっても報酬を失わないよう隠して預かり続け、パンを牛乳や水に浸した粥を与える例もあった。消化できずに弱って死ぬ子が多かった。死亡率は地域と時期で大きく違うが、預けられた子の四分の一から半数以上が一年以内に死んだとされる土地もある。母親のもとで育った子に比べて、明らかに高い。

乳を搾る女性を描いた16世紀のベルギーの教会の彫刻(乳母への風刺)
乳を搾る女性を描いた16世紀のベルギーの教会の彫刻(乳母への風刺)Wikimedia Commons Jean-Pol GRANDMONT · CC BY 3.0

さらに、育てる手立てを持たない親は子を捨てた。パリの捨て子養育院には、18世紀後半、年に五千から七千ほどの赤子が置かれ、パリで生まれる子の三分の一近くにあたる年もあった。ヨーロッパ各地の施設には、壁に回転する箱を取りつけ、外から赤子を入れて回せば、顔を見られずに中へ託せる仕掛けがあった。子を殺すか捨てるかの瀬戸際で、少しでも命を救うための匿名の窓口である。だが養育院の中の死亡率は、乳母のもとよりさらに高かった。乳が足りず、病気が広がり、多くの子は結局まとめて田舎の乳母へ送られた。入った子の三分の二以上が一年以内に死んだという推計もある。

この状況に声を上げた一人が、ジャン=ジャック・ルソーだった。1762年のルソー『エミール』で、彼は母親が自ら子に乳を与えるべきだと説き、母が授乳を始めれば風俗はおのずと改まる、とまで書いた。本は大きな影響を与え、上流の女性のあいだで自分で授乳することが流行になったほどである。ただ、ルソー自身は、五人の子をみな捨て子養育院に送っていた。彼はのちの『告白』でそれを認め、自分には育てる金が無く、国家に育てられるほうが子のためだと弁明している。この矛盾は生前から攻撃され、ヴォルテールは匿名の小冊子でそれを暴いた。

ロシアの乳母(1913年頃)
ロシアの乳母(1913年頃)Wikimedia Commons Frédéric de Haenen · Public domain

国家も手を打ち始める。1769年、パリに乳母局が設けられ、乳母の斡旋と報酬の支払いを公の帳簿で管理するようになった。親が報酬を払えずに乳母が子を返す、あるいは放り出す、という事態を防ぐためである。それでも死亡率はなかなか下がらなかった。フランスで本格的な規制が入るのは百年後、1874年のルーセル法からだ。乳母に預けられる子を届け出させ、医師による定期的な見回りを義務づけた。この後、フランスの乳児の死亡率ははっきり下がり始める。

19世紀に入ると、乳母の形も変わった。裕福な家は、赤子を田舎へ送るかわりに、乳母を家に住み込ませるようになる。乳母の多くは貧しい農村の出で、とりわけブルゴーニュの山あいのモルヴァン地方は、パリへ多くの乳母を送り出したことで知られた。彼女たちは自分の産んだ子を村の別の女性に預け、パリのブルジョワの家で他人の子に乳を与えた。その賃金で村の家が建ったとも言われる。一人の赤子に乳を与えるために、別の赤子が母親から離される。乳母という仕事は、しばしばそういう連鎖の上に成り立っていた。

乳母とともに国外へ逃れたキャサリン・ウィロビーとリチャード・バーティ
乳母とともに国外へ逃れたキャサリン・ウィロビーとリチャード・バーティWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

乳母という仕事を消していったのは、別の技術の進歩だった。1867年、スイスのアンリ・ネスレが、牛乳と小麦粉などを混ぜた乳児用の粉を売り出す(乳児のための粉)。牛乳の低温殺菌や冷蔵の技術も広まり、母親の乳でも乳母の乳でもない、第三の育て方が現れた。もっともその粉ミルクも、20世紀後半には新しい悲劇を生んだ。安全な水の無い国で粉ミルクが売り込まれ、汚れた水で薄めて使われた乳児が死んだのである。不買運動が起こり、1981年には世界保健機関が母乳代替品の販売についての国際的な規準を採った(母乳代替品の売り方)。

乳母と捨て子について、記録はわずかしか残っていない。乳母の名の多くは失われ、預けられた子の記録も断片的である。歴史家たちは、斡旋の帳簿や教区の埋葬記録を突き合わせて数字を組み立て直してきた。誰かが乳を与えなければ、子は生きられない。その労働は何千年も続けられてきたが、その大半は、経済の記録にも歴史の記録にも、ほとんど姿を現していない。

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