概要
18世紀のパリで、生まれた子の大半が、田舎の乳母に預けられた。ある推計では、年に2万人の新生児のうち、母が自ら育てたのは1割に満たない。職人の妻も働かねばならず、乳を与える時間がない。乳母は乳の出る限り何人も預かり、赤子は荷車で運ばれた。死亡率は極めて高く、地域によっては半数を超えた。同じ時期、捨て子養育院に年に数千人が置かれた。誰かが乳を与えなければ、子は生きない。その労働に、名も、記録も、ほとんど残っていない。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
**数字**。
**1780年、パリ**。
警察長官**ルノワール**が残した記録(後の研究で繰り返し引用される)。
その年、パリで生まれた子——約**21,000人**。
そのうち——
- **田舎の乳母**に預けられた——**17,000人** - パリ市内の乳母に預けられた——**2,000〜3,000人** - **母が、自分で育てた**——**700人**
(この数字の精度については議論があるが、**比率の桁**は、他の史料とも整合する。)
**つまり、母が自ら乳を与えた子は、全体の数%である**。
**なぜ**。
**(1)働かねばならない**。
パリの職人と小商人の家では、**妻も働く**。
(店番、仕立て、洗濯、そして夫の仕事の手伝い。
——**乳を与えるには、数時間ごとに、手を止めなければならない**。
〈当時、搾乳して保存する方法は、ない。〉)
**(2)習慣**。
上流階級では、**乳母に預けることが、当然だった**。
(**自分で授乳することは、下品**とされた。
そして、**授乳中は妊娠しにくい**(授乳性無月経)。跡取りを多く産む必要のある家では、**早く次の子を産むために**、乳母に預けた。)
**(3)そして、家の外へ出す**。
パリ市内の乳母は、高い。
**田舎の乳母**は、安い。
(周辺の農村——ブルゴーニュ、ノルマンディー、ピカルディー。
パリから**100kmを超える**こともあった。)
**運搬**。
**ムヌール**(meneur、運び屋)という職があった。
(乳母の斡旋と、赤子の輸送を請け負う。)
方法——
**荷車に、赤子を積んで運ぶ**。
(一台に、**数人から十数人**。
籠に入れ、藁を敷き、布をかける。
——冬は、凍える。夏は、日射に晒される。
**数日、かかる**。その間の授乳は、十分ではない。
**輸送中に死ぬ子が、少なくなかった**。)
**乳母**。
農村の女性が、**自分の子を産んだ後**、他人の子を預かる。
(一人だけとは限らない。**乳の出る限り、複数を預かる**。
——**自分の子と、預かった子の、両方に与える**。乳が足りなければ、どちらかが飢える。
〈史料に、**自分の子を先に離乳させて、預かった子に与えた**例と、**逆の**例の、両方が記録されている。〉
そして、乳が出なくなっても、**次の子を預かるために、隠して受け続ける**例があった。その場合、赤子には、パンを牛乳に浸したもの〈**パップ**〉が与えられた。消化できず、死ぬことが多い。)
**報酬**——月に数リーヴル。農村の女性にとって、**貴重な現金収入**である。
**死亡率**。
**極めて高い**。
(推計に幅があるが、**預けられた子の25%から50%以上**が、1年以内に死んだ、とされる地域がある。
——母が自ら育てた場合と比べて、**明らかに高い**。)
**捨て子**。
同じ時期、**捨て子養育院**(オピタル・デ・ザンファン・トゥルヴェ)に、**年に5,000〜7,000人**が置かれた。
(**パリで生まれた子の、3分の1近く**にあたる年がある。)
**トゥール**(tour)——回転する箱。
(教会か施設の壁に、円筒形の回転する箱が付いている。
**外から赤子を入れて、回す**と、中に入る。**顔を見られずに、置いていける**。
——匿名性を保証する仕組みである。捨てるか、殺すかの選択を避けるために作られた。
イタリア語で **ruota**。ヨーロッパ中にあった。)
**そして、そこでの死亡率は、さらに高い**。
(18世紀のパリの養育院で、**入所した子の3分の2から4分の3が、1年以内に死んだ**という推計がある。
——乳が足りない。感染が広がる。そして、**同じく田舎の乳母へ、まとめて送られた**。)
**議論**。
**ルソー**。
**『エミール』**(1762年)。
彼は、**母が自ら授乳すべきである**と、強く主張した。
「**母親が、子に乳を与えることを再び始めれば、風俗はおのずと改まるだろう**」。
(この本は、**大きな影響を与えた**。上流階級の女性が、自ら授乳することが、**流行になった**。
——**ただし**。
ルソー自身は、**自分の5人の子を、全員、捨て子養育院に置いた**。
彼は『告白』で、それを認めている。
〈彼の弁明——自分には育てる金がなく、また、その環境では子が不幸になる。そして、「プラトンの共和国のように、国家が育てるほうがよい」。〉
——**この矛盾は、彼の生前から、激しく攻撃された**。ヴォルテールが、匿名のパンフレットで暴露した。)
**規制**。
- 1769年、パリに**乳母局**(Bureau des Nourrices)が設けられた。斡旋と、報酬の支払いを管理した。 - 1874年、**ルーセル法**(フランス)。
(乳母を医学的に監督し、預けられた子の登録と、定期的な訪問を義務づけた。
——**フランスの乳幼児死亡率が、この後、明確に下がり始めた**。)
**終わり**。
19世紀後半から20世紀にかけて、乳母の慣行は、次第に消えた。
理由——
**(1)人工乳**。
**1867年**、**アンリ・ネスレ**が、**乳児用の粉ミルク**を発売した。
(彼は、乳の出ない母の子を、これで救ったことで、事業を始めた。
——**ネスレ社**の起源である。)
(そして、20世紀後半、**粉ミルクの販売方法**が、大きな国際問題になる。
1970年代、途上国で、企業が無料の見本を配り、母乳が出なくなった時点で購入せざるを得なくする販売手法が、批判された。
安全な水がない地域で、粉を薄めて使えば、**乳児が死ぬ**。
1977年から、**ネスレ・ボイコット**。1981年、WHOが**母乳代替品の販売に関する国際規準**を採択した。)
**(2)低温殺菌**と、**冷蔵**。
**(3)そして、女性の労働の形が変わった**。
**残ったもの**。
この労働について、**記録が、ほとんどない**。
(乳母の名は、多くの場合、残っていない。
預けられた子の記録も、断片的である。
——**斡旋の帳簿**と、**教区の埋葬の記録**から、歴史家が数字を再構成している。)
**誰かが、乳を与えなければ、子は生きない**。
その労働は、数千年、行われてきた。
そして、**その大半が、経済の記録に、現れていない**。