ゼノビア
概要
ローマの属領から自立し、エジプトまで支配した。敗れて連行され、その後の消息は伝わらない。
関わったできごと(1)
ゼノビアのパルミラ267年 · 当人本文
生まれた年ははっきりせず、240年頃とされる。ギリシア語・ラテン語の記録ではゼノビア、地元のアラム語の碑文ではバト・ザッバイと呼ばれている。シリアの砂漠のただ中にあるオアシス都市パルミラの生まれで、有力な家の娘だったと考えられる。

パルミラは、東のペルシアと西の地中海を結ぶ隊商の中継地として栄えた都市だった。ローマのシリア属州の一部でありながら、自分たちの隊商を守るための軍を持ち、ギリシア風の柱廊が並ぶ通りに、アラム語とギリシア語の碑文が並んでいた。神殿にはメソポタミアの神も、アラビアの神も祀られた。複数の言語と信仰が同じ町に並ぶ都市だった。
3世紀の半ば、ローマは帝位をめぐる争いと外敵の侵入で揺れていた(三世紀の危機)。260年、皇帝ウァレリアヌスがペルシア王シャープール1世に捕らえられる(ローマ皇帝が捕らわれる)。このとき、ペルシア軍を押し返したのが、パルミラの有力者で、ゼノビアの夫のオダエナトゥスだった。ローマの皇帝は彼に東方を守る称号を与え、パルミラは事実上、ローマの東半分を守る勢力になった。

267年、オダエナトゥスは長男とともに暗殺された。ゼノビアは幼い息子ウァバッラトゥスの摂政として、実権を握る。ローマが西の問題で手一杯なのを見て、彼女は勢力を広げた。270年、将軍ザブダに軍を預けてエジプトを押さえ、アナトリア(小アジア)の大半にまで兵を進めた。エジプトを取るということは、首都ローマの人々を養う穀物の供給を握るということになる。初めはローマの皇帝の権威を認める形をとっていたが、やがて息子に「アウグストゥス」、自分に「アウグスタ」の称号を名乗らせ、その名を刻んだ貨幣を作った(ゼノビアのパルミラ)。
宮廷には学者を招いた。ギリシアの修辞学者カッシウス・ロンギノスが彼女の相談役になったことは確かとされる。自らをクレオパトラ7世の子孫と称し、複数の言葉を話し、狩りを好み、兵とともに馬で行軍した——という姿は、4世紀末頃に書かれたローマの皇帝伝記集『ヒストリア・アウグスタ』によるところが大きい。この書物は作り話を多く含むことで知られ、ゼノビアの描写も、どこまでが事実かは分からない。

272年、皇帝アウレリアヌスが東へ向かった。アンティオキアの近くとエメサで、パルミラの軍は続けて敗れた。ゼノビアはパルミラに籠もったが、包囲が続くなかで町を抜け出し、ペルシアに助けを求めようとユーフラテス川へ向かったところで捕らえられた。パルミラは降伏した。尋問を受けたゼノビアは、反乱の責めを相談役たちに負わせたと伝えられ、ロンギノスは処刑された。翌273年、パルミラが再び背くと、アウレリアヌスは町を破壊した。東方の交易都市としてのパルミラの繁栄は、ここで終わる(アウレリアヌスの帝国再統一)。
その後のゼノビアについて、確かなことは分からない。ローマへ連れて行かれ、274年の凱旋式で金の鎖につながれて歩かされ、その後はローマ近郊のティブルに屋敷を与えられて暮らした、という話がある。一方で、移送の途中に病で死んだ、あるいは食を断って死んだ、という記録もある。どちらが本当かは分からない。

近代になって、ゼノビアは帝国に立ち向かった女王として、絵画や劇の題材になった。シリアでは民族の誇りとして紙幣にも描かれた。彼女が拠ったパルミラの遺跡は、2015年に過激派組織に占拠され、神殿のいくつかが爆破された。遺跡の研究と保護に半生を捧げた考古学者ハーレド・アサアドも、このとき殺されている。ローマに壊された町は、千七百年あまり後に、もう一度壊されたことになる。