できごと

『青鞜』の創刊

Founding of Seitō
AD1911年9月1日
重要度 3
大英帝国ロシア帝国清イギリス領インド帝国日本フランス領インドシナラタナコーシン朝(シャム)フィリピンAD1911年9月1日東京
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1911年9月1日の版図を描いています(8勢力)。

概要

「元始、女性は実に太陽であった」。女性が自分の言葉で書く場が日本にできた。

場所

東京
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都

関わった人(2)

伊藤野枝AD1895年1月21日–AD1923年9月16日 · のちに編集を引き継ぐ平塚らいてうAD1886年2月10日–AD1971年5月24日 · 創刊

本文

明治の終わりの日本で、女性が自分の考えを活字にして世に問う場は、ほとんど無かった。明治民法と家制度は妻を夫の家に従う者と定め、女子の教育は「良妻賢母」を育てることを目標にしていた。治安警察法は、女性が政治の集会に加わることも、政治の団体に入ることも禁じていた。

平塚らいてう(本名は明)は、1886年に東京の官吏の家に生まれ、日本女子大学校で学んだ。1908年、作家の森田草平と栃木の塩原へ向かい、雪の山中で心中を図ったとして連れ戻される。新聞はこの事件を大きく書き立て、彼女の名は醜聞とともに広まった。

創刊号の表紙。長沼智恵子(後の高村智恵子)が描いた。
創刊号の表紙。長沼智恵子(後の高村智恵子)が描いた。Wikimedia Commons Chieko Takamura (1886-1938) · Public domain

その彼女に、女性だけで文芸誌を作ってはどうかと勧めたのが、評論家の生田長江だった。誌名も長江の案で、18世紀のロンドンで知的な女性たちが青い靴下をはいて集った「ブルーストッキング」を訳したものである。資金は、母が娘の嫁入りのために蓄えていた金から出た。らいてうは仲間の女性4人と青鞜社を作った。

1911年9月、創刊号が出る。表紙は、のちに高村光太郎の妻となる長沼智恵子が描いた。

平塚らいてう
平塚らいてうWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

巻頭には与謝野晶子の詩が置かれ、「山の動く日来る」と始まる。そして、らいてうの文章が続いた。「元始、女性は実に太陽であった」。いまの女性は、他の光によって輝く月である、と書き、隠された太陽を取り戻そうと呼びかけた。このとき25歳だった。

雑誌は文芸誌として出発したが、すぐに女性の生き方そのものを論じる場になった。新聞は彼女たちを「新しい女」と呼んで冷やかした。社員が吉原の遊郭を見物した話や、色の層になった洋酒を飲んだ話が面白おかしく報じられ、らいてうの家には石が投げ込まれたという。イプセンの『人形の家』が日本で上演され、家を出ていく妻ノラの生き方が議論になったのも、同じ頃である。

嘲りに対して、らいてうは引き下がらなかった。1913年には、自ら「新しい女」と題する文章を書き、投げつけられた呼び名を自分たちの旗として引き受けた。同じ頃、海の向こうのイギリスでは、女性の参政権を求める運動が、街頭での激しい行動にまで高まっていた(イギリスの女性参政権運動)。青鞜社の女性たちは政治運動の団体ではなかったが、女性が自分の生き方を自分で決めるという問いを、日本で初めて正面から掲げた。

イギリスの女性参政権運動に関わる図版:Annie Kenney and Christabel Pankhurst (cropped)
イギリスの女性参政権運動Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

誌上では、それまで女性が公に語ることのなかった問いが次々に取り上げられた。生活のために体を売ることと貞操はどちらが重いのか。望まない妊娠を中絶することは罪なのか。公娼の制度は廃止すべきなのか。中絶を扱った小説を載せた号などは、風俗を乱すとして発売を禁じられた。同じ年の初めには大逆事件で幸徳秋水らが処刑されており、言論への締めつけは厳しかった。

全国から読者の手紙が届いた。地方の町で、同じことを考えている女性がいると知る手段は、それまで無かった。雑誌は創刊時で千部ほどの小さな部数だったが、読んだ人がまた誰かに手渡し、遠くまで届いた。

神近市子
神近市子Wikimedia Commons Unknown photographer · Public domain

1915年からは、10代で地方から上京して社に加わった伊藤野枝が編集を引き継いだ。誰でも書ける雑誌にすると宣言し、論争の場としての色はさらに強まった。しかし資金は続かず、1916年2月の号を最後に終刊する。5年に満たない、52冊の雑誌だった。

その後、らいてうは1920年に市川房枝らと新婦人協会を作り、女性が政治の集会に参加することを禁じた法の改正を勝ち取った。伊藤野枝は大杉栄と暮らし、1923年の関東大震災の混乱の中で、大杉とともに憲兵に殺された。女性が初めて国政選挙で票を投じるのは、さらに20年あまり後のことである(女性が初めて投票した日)。誌上で論じられた問いの多くは、まだ終わっていない。

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