概要
1928年のアムステルダム・オリンピックは、陸上競技に初めて女子の種目が加えられた大会だった。日本からただ一人の女子選手として出場した人見絹枝は、得意の100メートルで敗れたのち、経験のほとんど無い800メートルに挑み、8月2日、ゴールで倒れ込みながら2位に入った。日本の女性として初めてのオリンピックのメダルだった。走り終えて倒れる選手が多かったことから、女子の800メートルは、その後1960年まで行われなくなった。人見は、女性がスポーツをすることに冷たい世間と戦いながら走り続け、ちょうど3年後の同じ日、24歳で病に倒れた。
場所
52.37°N 4.90°E · オランダ
本文
近代のオリンピックは、はじめ女性の参加にきわめて消極的だった。創始者のクーベルタンは、女性の競技は見苦しいと考えていた。1900年のパリ大会でテニスやゴルフに女性が出場したのを皮切りに、少しずつ種目が増えたが、陸上競技は、女性には激しすぎるとして長く認められなかった。女性たちは、1922年から独自の女子オリンピックを開いて、国際オリンピック委員会に圧力をかけた。1928年のアムステルダム大会で、ようやく陸上に女子の5種目が加えられた。
人見絹枝は、1907年、岡山県の農家に生まれた。女学校でテニスに打ち込み、陸上の才能を見いだされて、二階堂トクヨの体操塾(のちの日本女子体育大学)で学んだ。1926年、スウェーデンのイエーテボリで開かれた第2回の女子オリンピック(国際女子競技大会)に、日本からただ一人出場し、走り幅跳びで当時の世界記録を出して優勝するなど、個人で総合の優勝を果たした。当時の日本では、女性が太ももをあらわにして走ることに、強い偏見があった。
1928年のアムステルダム大会で、日本の女子選手は人見ひとりだった。彼女の狙いは100メートルの金メダルだったが、準決勝で敗れた。このままでは日本に帰れない、と人見は思いつめ、それまでほとんど走ったことのない800メートルへの出場を決めた。8月2日の決勝で、人見はドイツのリナ・ラトケと競り合い、最後の力を振り絞って2位でゴールし、そのまま倒れ込んだ。日本の女性が初めて手にしたオリンピックのメダルだった。
この決勝では、走り終えて倒れ込む選手が多かった。それを見た新聞や役員たちは、800メートルは女性には過酷すぎると騒ぎ立て、女子の200メートルを超える種目は、その後の大会から外された。女子の800メートルがオリンピックに戻ってきたのは、1960年のローマ大会だった。
帰国した人見は、新聞社に勤めながら、講演や原稿の執筆で女子のスポーツの普及に努め、後輩たちの遠征の資金を集めるために、無理を重ねて大会に出場し続けた。1931年8月2日、アムステルダムの800メートルからちょうど3年後の同じ日、肺炎のため24歳で亡くなった。