アミナ女王
概要
ハウサの都市国家を率いて周辺を従えた。土塁で囲む築城の様式が「アミナの壁」として各地に残る。
関わったできごと(1)
アミナ女王のザザウAD16世紀後半 · 女王本文
ハウサの都市国家ザザウの王女になる。ザザウは、いまのナイジェリア北部の町ザリアの前身で、サハラの南の縁、サバンナの中にあった。
ハウサの人々は、城壁で囲まれた町を単位に、いくつもの小さな国を作っていた(ハウサ諸都市とカノ)。カノ、カツィナ、ゴビル、そしてザザウ。王家の始まりは、東から来た英雄バヤジッダが井戸の大蛇を退治して土地の女王と結ばれ、その子や孫が七つの国を開いた、という伝説で語られる。町々は、北のサハラを越えて地中海へ通じる隊商の道と、南の森林地帯から来る産物とのあいだに立ち、その中継で栄えた。町を治めるのはサルキと呼ばれる王で、14世紀から15世紀にかけて、西のマリの方面から来たイスラームの学者や商人によって、王家や商人のあいだにイスラームが広まっていた。ただし多くの農民は古い信仰を保ち、王もその両方に配慮して治めた。町の市場では、貝殻の貨幣(タカラガイ)が使われ、布や皮革の細工がハウサの名産として遠くまで運ばれた。西にはソンガイ帝国、東にはカネム=ボルヌ(カネム=ボルヌの隆盛)という大国があり、ハウサの町々はそのはざまで、争いと交易を繰り返していた。
伝承によれば、アミナはザザウの女王バクワ・トゥルンクの娘として生まれた。妹のザリアの名が、のちに町の名になったとも言われる。16歳で王位継承者となり、軍事の訓練を受けた。結婚を勧められて断りつづけた。母の死後、兄カラマが王位に就くと、アミナは騎兵を率いる将として兄の戦いに加わった。兄が死んだ後、自ら王位に就いた。
即位後、周辺の都市を次々に従えた。狙いが交易路にある。南のクワララファや西のヌペを押さえ、サハラ縦断の道と森林地帯の道を結んだ。コーラの実と塩と奴隷と馬が、そこを通った。19世紀にまとめられた『カノ年代記』は、アミナがクワララファとヌペまでを征服し、どの町も彼女に貢ぎ物を納めた、と書く。ヌペの王は40人の宦官と1万個のコーラの実を贈った。ハウサの地で宦官とコーラの実を持ったのは彼女が最初だった、とも記されている。
築城の様式が残っている。土を突き固めた壁で町を囲む。戦いで陣を張るたびに、その場所に土の城壁を築かせたと伝えられる。各地に残るその壁が「アミナの壁」と呼ばれる(アミナ女王のザザウ)。ザリアの旧市街を囲む壁も、彼女の時代に始まると言われてきた。城壁の中には畑も井戸もあり、包囲されても町が持ちこたえられる造りになっていた。

伝承は、彼女の恐ろしさも語る。夫を持たず、征服した町ごとに一夜の相手を選び、翌朝には殺した、という話がある。これは後の語りの中で付け加えられたものとみられ、そのまま事実とは受け取れない。死んだのは遠征の途中、ニジェール川に近いアタガラの地だったとされる。
記録の多くが口承と、19世紀の年代記に頼っている。『カノ年代記』は、アミナをカノの王ムハンマド・ダウダと同じ時代の人として置いていて、そこから数えると15世紀前半になる。一方、ザザウの王の系譜の伝承では、16世紀の後半に女王として治めたことになる。生きた時代が16世紀か15世紀かで説が分かれる。存在自体を疑い、いくつかの伝説上の女性を一人にまとめた姿だと見る研究者もいる。
それでも、ハウサの社会で女性が王や将として力を持った時代があったことは、ほかの伝承からもうかがえる。のちの19世紀、ウスマン・ダン・フォディオの聖戦によってハウサの諸国がソコトの国(ソコト帝国の成立)に組み込まれると、イスラーム法のもとで女性が政治の表に立つことは難しくなった。アミナの物語は、その前の時代の記憶として語り継がれた。
いまのナイジェリアでは、アミナは国の歴史を代表する女性の一人とされる。ラゴスの国立劇場には馬に乗った彼女の像があり、学校の教科書や物語、映画にも描かれる。槍を手にした女王の姿は、アフリカの女性の力の象徴として、国の外でも知られるようになった。事実と伝説の境目はぼやけたままだが、土の城壁は、いまもザリアの町に残っている。