人物

婦好

Fu Hao
? – BC1200年頃
殷重要度 4

概要

武丁の60人以上の妃の一人。甲骨に「婦好が羌を伐つ」「婦好に1万3000を与える」「婦好が祭る」「婦好は子を産むか」。将軍で、祭司で、領地を持った。墓から鉞(斧)が二つ出た。軍の指揮の印。

関わったできごと(1)

武丁と婦好BC1200年頃 · 妃

本文

婦好は、殷の後期の王武丁の妃である。生まれた年も、どこの出身かも分からない。名の「婦」は王の妃や王族の女性を呼ぶ字で、「好」は彼女の名、あるいは出身の氏族を示す字だと考えられている。殷の王の姓とされる「子」と関わる字だとする説もあるが、確かではない。武丁には、甲骨文に名の残る妃や王族の女性が60人あまりいたとされる。その中で、婦好ほど多く占いの記録に名を残した女性はいない。

殷の王は、戦争、祭り、狩り、天気、病気、出産まで、あらゆることを占った。亀の甲羅や牛の肩甲骨に熱を加えてひびを入れ、その形で吉凶を判じ、問いと答えを刻みつけた(甲骨文字)。19世紀の末から殷の都の跡、いまの河南省安陽の殷墟で掘り出されたその記録の中に、婦好の名はおよそ200片に現れる。

甲骨文字に関わる図版:Shang Inscribed Ox Scapula (for divination)
甲骨文字Wikimedia Commons CC0

もっとも目を引くのは戦争の記録である。婦好が北方の土方を伐つべきか、婦好が将軍沚戛とともに巴方を伐つべきか、と王は占った。王が東から攻め、婦好が西から攻めて敵を挟み撃ちにする作戦を問うたものもある。西方の羌を伐つときの占いには、婦好の兵3000と、ほかの兵1万を集めることが刻まれている。合わせて1万3000人という数は、殷の甲骨文に見える動員の中で最大級のものである。こうした記録から、婦好は中国の歴史に名の残る最初の女性の将軍と呼ばれることが多い。ただ、彼女が戦場で自ら指揮をとったのか、自分の領地から兵を出したのかを、短い占いの文から読み分けることは難しい。

戦争だけではない。婦好は祖先の祭りを執り行い、生贄を捧げた。殷の祭りは国の政治の中心であり、それを妃が主宰していたことは、彼女の地位の高さを示している。婦好には自分の領地があり、そこから貢ぎ物を王に納めていたことも、甲骨文から分かる。一方で、王は婦好の私的なことも繰り返し占った。婦好の出産は良いものになるか(男の子なら良いとされた)、婦好の歯の痛みは祟りによるものか、婦好の病は治るか。占いの文には、戦場に兵を送り出す王と、妻の身を案じる夫の二つの顔が並んでいる。

婦好墓と像(紀元前1200年頃、武丁の治世)
婦好墓と像(紀元前1200年頃、武丁の治世)Wikimedia Commons Gary Todd from Xinzheng, China · CC0

婦好は武丁より先に死んだ。王は死んだ彼女のために祭りを続け、亡き婦好を先の代の王たちの配偶として託すことを問う占いも残っている。死後、彼女は「辛」の日に祭られ、子の世代からは「母辛」と呼ばれた。

婦好の名が広く知られるようになったのは、1976年のことである。殷墟の宮殿の跡の近く、小屯村の西北で、中国社会科学院の考古学者鄭振香らが、一基の墓を掘り当てた。長さ5.6メートル、幅4メートルほど、深さは7.5メートルで、地上から下りていく墓道を持たない竪穴の墓だった。殷の王たちの大きな墓は、洹河の北の王陵の地区にあるが、そこはどれも古くに盗掘されていた。宮殿の近くにあったこの墓は、手つかずのまま3000年を過ごしていた。

婦好墓出土の玉製人物像、中央アジアのセイマ=トゥルビノ文化の影響とされる
婦好墓出土の玉製人物像、中央アジアのセイマ=トゥルビノ文化の影響とされるWikimedia Commons Gary Todd · CC0

墓の中からは、1900点を超える品が見つかった。青銅器が468点、玉器が755点、骨で作った品が500点以上、そして南の海から運ばれたタカラガイが6800枚あまり。青銅器の多くには「婦好」の名が鋳込まれ、ほかに「司母辛」「后母辛」と記したものもあった。甲骨文の婦好と、死後の名の母辛が、同じ一人の女性だと確かめられたのである。「后」と「司」のどちらに読むべきかは、いまも研究者の間で議論がある。

副葬品の中でとりわけ人々を驚かせたのが、二つの大きな青銅の鉞(まさかり)だった。重さはそれぞれ8キロから9キロほどあり、一つには二頭の虎が人の頭を挟む文様が鋳出され、「婦好」の銘がある。殷で鉞は、刑罰と軍の指揮権を表す道具とされ、甲骨文の戦争の記録と、この鉞とが重なって、武人としての婦好の姿が描かれるようになった。武器としては、ほかに多くの戈や鏃が納められていた。

婦好墓の博物館展示
婦好墓の博物館展示Wikimedia Commons Gary Todd · CC0

玉器の中には、ひざまずく人の像や、鳳凰や龍をかたどった細工がある。その中に、殷よりはるかに古い紅山文化や石家河文化の様式の玉が混じっていることが指摘されている。婦好が古い時代の玉を集めて手元に置いていたのかもしれない。墓には16人の殉葬者と6匹の犬も葬られていた。婦好自身の遺骨は、地下水のために失われていて、死んだときの年齢は分からない。

殷を倒した周の人々は、女性が政治に口を出すことを強く戒めた。『書経』の「牧誓」には、牧野の戦い(殷周革命)を前に周の武王が兵に向かって、雌鶏が朝を告げると家が滅ぶ、と語り、殷の最後の王が女の言葉に従ったことを責めた、と記されている。周の後の時代の目から見れば、戦争に兵を出し、国の祭りを執り行う妃は、あってはならないものだった。婦好の墓と甲骨文は、周の価値観で書かれた歴史の前に、女性がもっと大きな役割を担っていた時代があったことを伝えている。

いま殷墟の婦好の墓の上には、墓の上に建っていたとみられる建物が復元され、鉞を手にした婦好の像が立っている。2016年には北京の首都博物館で、婦好の墓の出土品を集めた展覧会が開かれ、彼女を王の后、母、そして女性の将軍として紹介した。二人の時代の殷の姿は、武丁と婦好の項にも書いた。

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