マッチ工場の少女たち
概要
白リンの蒸気を吸い続けると顎の骨が腐る。「燐顎」と呼ばれ、患部は暗闇で青白く光り、外科医は骨を削り取るしかなかった。ロンドン東部のブライアント・アンド・メイ社では、十代の少女が長時間働き、遅刻や取り落としに罰金を科されていた。アニー・ベサントが労働の実態を記事にすると、会社は署名を強要しようとし、拒んだ女性が解雇された。千四百人が仕事を止めた。三週間で罰金制度が廃され、組合ができた。白リンの使用が英国で禁じられるのは、その二十年後である。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
19世紀のマッチの頭には、白リン(黄リン)が使われていた。どこで擦っても火が点き、安く作れる。だが、その蒸気を毎日吸い続けると、顎の骨が腐っていく病にかかった。英語で「フォッシー・ジョー(燐顎)」と呼ばれたリン性の顎骨壊死である。
病はまず歯の痛みから始まる。虫歯や歯を抜いた跡から毒が入り込むことが多かった。やがて顎が腫れ、ひどいにおいの膿が出て、骨が少しずつ腐っていく。腐った骨が暗闇で青白く光った、という証言がいくつも残っている。リンが光っていたのである。治すには、外科医が顎の骨を削り取るしかなかった。顔は変形し、手術をしなければ、毒が体に回って死ぬことが多かった。発病した者は工場を辞めさせられ、たいていは記録にも残らなかった。
ロンドン東部のボウにあったブライアント・アンド・メイ社は、1840年代に始まった会社で、19世紀後半にはイギリス最大のマッチの会社になっていた。株主への配当は年に2割を超える年もあった。工場で働いていたのは、多くが十代の少女や若い女性で、アイルランド系の貧しい家の娘が多かった。朝6時半から夕方6時まで、夏はさらに早い朝6時から働き、週の賃金は4シリングから9シリングほどだった。
そこから罰金が引かれた。遅刻すれば半日分の賃金を取られることがあった。おしゃべりをした、手を洗わなかった、マッチを床に落とした、作業台が汚れていた、許しを得ずに便所に行った。罰金の額は現場の監督が決め、決まった基準は書かれていなかった。食事は作業場で取ることが多く、リンの付いた手でそのままパンをつかんだ。それが中毒の大きな入り口になっていた。

1888年6月、社会主義者たちの勉強会フェビアン協会の集まりで、この会社の働かせ方が話題に上った。それを聞いたアニー・ベサント(1847〜1933年)は、工場の門の前で働く女性たちから直接話を聞いた。ベサントは無神論と産児制限を説いて裁判にかけられたこともある運動家で、のちには神智学に転じ、インドの自治運動にも身を投じることになる。
6月23日、ベサントは自分の発行する小さな週刊紙に、「ロンドンの白い奴隷」という見出しの記事を書いた。賃金と罰金の一覧を並べ、その隣に株主への配当の額を置いた。会社が自由党の政治家グラッドストンの像を建てるとき、その費用を女性たちの賃金から天引きした、という話も書き込んだ。除幕の日に女性たちが腕を切り、その血を像にかけた、という話も伝わっている。

会社は記事を打ち消そうとした。働く女性たちに、労働条件に不満は無いという書面への署名を求めたのである。多くの女性が拒み、7月5日、一人が解雇された。その日のうちに、その職場の女性たちが仕事を止めた。翌日には工場全体が止まり、1400人ほどが仕事をやめて外に出た。
組合が先にあって指示したのではなかった。女性たちは自分たちで仕事を止め、それから、記事を書いたベサントのもとへ行って、どうすればいいのかと尋ねたのである。ベサントは驚いたが、すぐに動いた。新聞が取り上げ、ストライキの女性たちを支える寄付が集まった。代表の女性たちは議会へ歩き、議員たちが話を聞いた。配当2割の会社が、便所に行った少女から罰金を取る。この対比が世論を動かした。

ストライキはおよそ3週間で終わった。会社は折れ、罰金の制度をやめ、間に立つ業者を通した賃金の払い方をやめ、作業場とは別に食事の部屋を設けることを約束した。そして女性たちの組合を認めた。こうしてできたマッチ女工組合は、当時、女性だけでつくる組合として最大のものになり、ベサントがその書記になった。
もっとも、それですぐに燐顎が消えたわけではない。白リンは使われ続け、病も続いた。1891年、救世軍(救世軍の始まり)は、毒の少ない赤リンを使うマッチ工場をロンドンに開いた。賃金は高めで、見学者を工場に入れた。安全なマッチでも作れるのだ、と世間に示すためである。ブライアント・アンド・メイ社が白リンをやめたのは1901年だった。そして1908年、イギリスは法律で白リンのマッチの製造を禁じる。ストライキから20年がたっていた。
このストライキは、「新しい組合運動」の始まりとして語られる。それまでの組合は、腕のある熟練の職人のものだった。技能があって替えがきかないから、雇い主と交渉できた。マッチ工場の少女たちは、その反対である。替えのきく、技能の無い、若い女性たちが、それでも工場を止めてみせた。翌1889年には、ロンドンの港で働く人々が大規模なストライキを起こし、10万人ともいわれる人々が仕事を止めて勝った。マッチ工場の少女たちが、その道を先に開いていた。
火を一瞬で作れるようになったのは、19世紀の大きな便利さの一つだった(摩擦マッチ)。ポケットのマッチ一本で、火口箱を使って何分もかけていた火起こしが済む。その一本の値段の中に、誰の顎の骨が入っていたのか。それがはじめて公の場で見えたのが、この夏だった。便利さの代価は、買う側の帳簿には載らない。のちにアメリカの縫製工場の火事(トライアングル・シャツウエスト工場の火災)が示したように、それはいつも、働く側の体で払われていた。