人物

藤原道綱母

Mother of Michitsuna
AD936年 – AD995年(享年59・推定)
平安時代重要度 4

概要

藤原倫寧の娘。「本朝三美人」と『尊卑分脈』。954年、兼家の妻に。翌年、道綱。兼家の正妻は時姫で、道長の母。夫の足が遠のき、他の女に子が生まれ、鳴滝の寺に籠もり、連れ戻された。『蜻蛉日記』。「あるかなきかの蜻蛉」。歌人としても『拾遺集』に。

関わったできごと(1)

『蜻蛉日記』AD974年(天延2年)頃 · 著者

本文

936年頃に生まれた。本名は伝わらず、息子の名から藤原道綱母と呼ばれる。父の藤原倫寧は、陸奥守などを務めた受領(地方官)で、中流の貴族だった。彼女の妹(母の違う妹)の娘、つまり姪が、のちに『更級日記』を書く菅原孝標女である。南北朝時代にまとめられた系図集『尊卑分脈』は、彼女を「本朝第一の美人三人のうち」と記している。美貌と和歌の才で、若い頃から知られていたらしい。

藤原道綱母(柳々居辰斎画)
藤原道綱母(柳々居辰斎画)Wikimedia Commons Ryūryūkyo Shinsai · CC0

954年、藤原兼家から求婚の歌が届いた。兼家は右大臣藤原師輔の三男で、26歳。名門中の名門の御曹司だった。父の倫寧は喜んだが、兼家の求婚の歌は、紙も筆跡も粗末で、恋の歌の作法も心得ていないように見えた、と彼女は書いている。それでも二人は結ばれた。当時の貴族の結婚は、夫が妻の家に通う形で、一人の男が何人もの妻を持つのがふつうだった。兼家にはすでに時姫という妻がいて、男子も生まれていた。のちの道隆、道兼、そして藤原道長の母となる女性である。

翌955年、彼女は男子を産んだ。道綱である。だが、その年のうちに、兼家が別の女のもとへ通っていることに気づいた。町の小路に住む身分の低い女だった。ある夜、兼家が訪ねてきても、彼女は門を開けなかった。兼家はそのまま例の女のもとへ行ってしまった。翌朝、彼女は、嘆きながら独りで寝る夜が明けるまでの間が、どれほど長いものかご存じですか、という歌を、色あせた菊の花に添えて兼家に送った。この歌は『拾遺和歌集』に採られ、のちに『小倉百人一首』にも入った。兼家は、冬の夜でなくても戸がなかなか開かないのはつらいものだ、と軽く受け流す歌を返している。

町の小路の女は兼家の子を産んだが、まもなく兼家の足は遠のき、子も死んだ。彼女はそれを聞いて胸がすっとした、と率直に書いている。だが兼家の心が彼女の元に戻ったわけではなかった。夫はほかの女性のもとにも通い、時姫との間には次々に子が生まれ、兼家は出世の階段を上っていった。彼女の家を訪れるのは、間遠になる一方だった。

日記の中盤には、遠出の場面が増える。初瀬の長谷寺や石山寺への参詣、琵琶湖のほとりの唐崎での祓え。夫が来ないことの苦しみを抱えながら、旅の途中の風景や人々の様子を細かく書き留めている。971年には、彼女は京の西の鳴滝の寺にこもり、出家するつもりだと言って家に戻らなかった。兼家は何度も使いをよこし、ついには自ら迎えに来た。彼女は結局、連れ戻された。世間の人々は、このことを噂の種にした。

やがて彼女は、兼家がほかの女性に産ませた娘を、自分の養女として引き取った。道綱以外に子を産めなかった彼女にとって、娘を育てることは、兼家とのつながりを保つ手段でもあった。日記は974年の大晦日で終わる。夫はもうほとんど訪れなくなっていた。

彼女はこの21年間の結婚生活を、自分の手で日記にまとめた。それが『蜻蛉日記』である。日記の序文で、彼女は、世の中に出回る古い物語はみな絵空事ばかりだが、自分のように取るに足らない身の上を書いておけば、高い身分の人の暮らしとはどんなものかを知る例にもなるだろう、と述べている。そして、あるかなきかの、はかない身の上を思えば、これは蜻蛉(かげろう)の日記とでも言うべきだ、と題の由来を記した。作り話ではない自分の人生を、女性が自分の言葉で書き残した、日本で最初の作品の一つとされる。

『蜻蛉日記』に関わる図版:Udaisho michitsuna no haha LCCN2008660907
『蜻蛉日記』Wikimedia Commons Utagawa, Kunisada, 1786-1864, artist · Public domain

ただ、日記は起きたことをそのまま記録したものではない。後年になってから、自分の歌や兼家との手紙のやりとりを手がかりに、出来事を選び、自分の気持ちを中心に組み立て直したものと考えられている。兼家は冷たく身勝手な夫として描かれているが、その言葉の端々には、彼なりに彼女を気づかっていた様子もうかがえる。

兼家はその後、986年に孫の一条天皇を即位させて摂政となり、藤原氏の権力の頂点に立った。だがその栄華を支えたのは、時姫の産んだ子どもたちだった。道綱も大納言まで上ったが、異母弟の道長の陰に隠れた存在で、同じ時代の公卿の藤原実資は日記『小右記』で、道綱は自分の名前くらいしか書けない、とまで書いている。

彼女は995年頃に亡くなったとされる。60歳前後だった。歌人としての評価は高く、勅撰集に30首あまりが採られ、平安時代の代表的な歌人の一人に数えられている。

『蜻蛉日記』が書かれてから30年ほどのち、宮中では清少納言や紫式部が、随筆(『枕草子』)や物語(『源氏物語』)を書いた。女性が自分の心の内を書き綴るという道を切り開いた点で、この日記はその先がけになったと考えられている。夫の訪れを待つ女の嘆き、嫉妬、子への思いは、千年を経ても読む人の胸に届く。名前さえ残らず、息子の母としてしか呼ばれない女性が書いた言葉が、平安の女性文学の始まりの一つになった。

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