人物

平塚らいてう

Hiratsuka Raichō
AD1886年2月10日 – AD1971年5月24日(享年85)
日本重要度 3

概要

「元始、女性は実に太陽であった」。『青鞜』を創刊し、女性が自分の言葉で書く場を作った。

所属

日本

関わったできごと(1)

『青鞜』の創刊AD1911年9月1日 · 創刊

本文

1886年、東京の麹町に生まれた。本名は明(はる)。父の平塚定二郎は会計検査院に勤める官吏で、明治の新しい中流家庭の娘として育った。東京女子高等師範学校の附属高等女学校から日本女子大学校の家政学部に進み、1906年に卒業する。在学中から哲学や宗教の書物を読みあさり、禅寺に通って坐禅を組んだ。良妻賢母を育てる教育には、なじめなかった。

平塚らいてうの肖像
平塚らいてうの肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1908年、作家の森田草平と栃木県の塩原の山中へ入り、心中未遂として連れ戻された。新聞はこれを大きく書き立て、森田はのちにこの出来事を小説『煤煙』にした。家柄の良い娘の醜聞として、名前は世間に知れ渡った。本人にとっては、世間の目から自分を切り離す経験になったとされる。

1911年、生田長江に勧められ、母から資金を出してもらって、女性だけの文芸誌『青鞜』を創刊した(『青鞜』の創刊)。創刊号の巻頭に置かれたのは与謝野晶子の詩だった。らいてうは発刊の辞を書き、このとき初めて「らいてう」の筆名を使った。冒頭の一句「元始、女性は実に太陽であった」は、今では女性解放の言葉として知られる。いまの女性は他人の光で輝く青白い月だ、と続く。

東京女子高等師範学校附属高等女学校時代
東京女子高等師範学校附属高等女学校時代Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

雑誌は反響を呼んだが、攻撃も受けた。同人が酒場で色の違う洋酒を飲んだ、吉原を見物した、といった話が新聞に「新しい女」の放埒として書き立てられた。家制度や貞操を問う作品が載った号は発禁になった。らいてうは引き下がらず、1913年には「新しい女」を自ら名乗る文章を雑誌に書いた。嘲りの言葉を、自分たちの旗印に取り替えたのである。誌面は文芸から女性問題の議論へと移り、イプセンの『人形の家』のノラをどう読むか、貞操、堕胎、公娼制度といった、それまで女性が公に論じることのなかった題目が並んだ。

1914年、年下の画学生・奥村博史と、結婚の届けを出さずに暮らし始めた。家の外に出て対等に暮らすという宣言を、両親あての手紙の形で雑誌に発表している。奥村の手紙にあった比喩から「若いツバメ」という言い方が生まれたとされる。翌年、雑誌の編集を伊藤野枝に譲り、『青鞜』は1916年に途絶えた。

左から小林哥津、岩野清子、中野初子、荒木郁子、保持研子、平塚らいてう(1913年)
左から小林哥津、岩野清子、中野初子、荒木郁子、保持研子、平塚らいてう(1913年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

二人の子を産み、育てながら、らいてうは母であることを社会の問題として考えるようになる。1918年からの母性保護論争で、妊娠・出産・育児の時期は国が母を保護すべきだと主張した。与謝野晶子は、女性はまず経済的に自立すべきで、国に頼るのは依存だと反論した。山川菊栄が両者を批判して加わり、論争は広がった。どちらが正しいというより、女性が何を足場にするかという問いが分かれている。

1920年、市川房枝・奥むめおらと新婦人協会を作った。女性が政治集会に参加することを禁じた治安警察法の条文を改めさせる運動を進め、1922年にその部分の改正を実現した。女性が集会で政治を論じる道は、ここで開かれた。ただ協会は内部の対立もあって短命に終わり、らいてうは体を壊して運動の表から退いた。参政権の獲得は戦後の女性が初めて投票した日を待つことになる。

平塚と夫の奥村博史。1914年夏、伊豆の土肥温泉にて。
平塚と夫の奥村博史。1914年夏、伊豆の土肥温泉にて。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

奥村とは長く届けを出さずに暮らしたが、1941年、息子が兵役に就くのを前に、子が不利な扱いを受けないよう婚姻届を出している。主張と、戦時の暮らしの現実とのあいだで選んだ道だった。

戦後は平和運動に力を注いだ。1950年、講和条約をめぐって、日本の女性として非武装と全面講和を望む声明を、仲間とともに出した。1953年に日本婦人団体連合会の会長となり、国際的な女性団体の運動にも名を連ねた。1962年には新日本婦人の会の結成を呼びかけた一人になっている。76歳だった。晩年はベトナム戦争への反対も訴えた。

「新婦人協会」のメンバー。左から、市川房枝、一人おいて奥むめお、平山六之助、近藤真柄、平塚らいてう。右端の女性は不明。1920年1月6日撮影。
「新婦人協会」のメンバー。左から、市川房枝、一人おいて奥むめお、平山六之助、近藤真柄、平塚らいてう。右端の女性は不明。1920年1月6日撮影。Wikimedia Commons Unknown photographer · Public domain

1971年5月24日、85歳で死んだ。最後まで書き続けた自伝は、没後に『元始、女性は太陽であった』として刊行された。家・結婚・母性・政治という、女性の生き方を縛るものを一つずつ問い直した生涯で、その一つひとつが物語「女性の権利」の歩みと重なっている。

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