人物

津田梅子

Tsuda Umeko
AD1864年12月31日 – AD1929年8月16日(享年64)
日本重要度 3

概要

6歳で岩倉使節団に同行して渡米した。帰国後、女性のための高等教育の学校を作る。

所属

日本

関わったできごと(1)

女子英学塾の創設AD1900年 · 当人

本文

1864年12月31日、江戸の牛込に生まれた。名は「むめ」。父の津田仙は幕臣で、幕府の使節に従ってアメリカを見てきた人だった。明治になると西洋の農業を学んで広め、キリスト教の信徒にもなった。娘を外国で学ばせるという、当時は誰も考えなかったことを思いついたのも、この父だった。

6歳で岩倉使節団に同行して渡米した。北海道開拓使の長官・黒田清隆の発案で、アメリカの女性のように教養ある母を育てるため、少女を10年間留学させる計画が立てられた。応募した5人のうちの一人で、最年少になる。最年長の吉益亮は14歳、のちに鹿鳴館の華となる山川捨松は11歳だった。1871年12月、横浜を出る船には、岩倉具視らの政府の首脳が乗り込んでいた。

岩倉使節団に関わる図版:Iwakura mission
岩倉使節団Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ワシントン近郊のジョージタウンで、日本公使館に勤めるチャールズ・ランマンの家に預けられた。子のいないランマン夫妻は梅子を実の娘のように育てた。梅子は英語を覚え、ピアノを習い、8歳で自ら望んで洗礼を受けた。年上の2人は体を壊して早く帰国し、残った捨松と永井繁子とは生涯の友になった。

11年後に帰国したとき、日本語が話せなかった。父母とは通訳を介して話すほどだった。そして、その教育を生かす場が用意されていなかった。国費で留学させた政府は、帰ってきた娘たちに何の職も用意していなかった。女性が就ける職はほとんど無く、早く結婚するようにと言われた。捨松は陸軍卿の大山巌と、繁子は海軍の瓜生外吉と結婚した。梅子は、結婚のための結婚はしないと決めた。

津田梅子の肖像
津田梅子の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

伊藤博文の家で娘たちの家庭教師と夫人の通訳を務めた後、1885年から華族女学校で英語を教えた。華族女学校で教えたが、そこは上流の娘の教養の場だった。生徒たちは卒業を待たずに嫁いでいき、学問を身につけて自分の道を切り開こうとする者はいなかった。梅子はアメリカの友人への手紙に、日本の女性の置かれた立場への苛立ちを書き続けている。

もう一度アメリカへ渡って生物学を学び、論文も出している。1889年、24歳でフィラデルフィア近郊の女子大学ブリンマーに入り、生物学を専攻した。のちにノーベル賞を受けるトマス・ハント・モーガンのもとでカエルの卵の発生を研究し、二人の名で論文がイギリスの学術誌に載った。大学は研究者として残るよう勧めたが、梅子は日本の女性の教育のために帰ることを選んだ。在学中に、日本の女性をアメリカで学ばせるための奨学金を募る運動も始めている。

1872年1月、サンフランシスコ滞在中の女子留学生5名、ならびにデ・ロング 駐日アメリカ公使夫人。左から、山川捨松、上田悌子、津田梅子、デ・ロング夫人、吉益亮子、永井繁子。
1872年1月、サンフランシスコ滞在中の女子留学生5名、ならびにデ・ロング 駐日アメリカ公使夫人。左から、山川捨松、上田悌子、津田梅子、デ・ロング夫人、吉益亮子、永井繁子。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

帰国後は再び華族女学校と、女子高等師範学校で教えながら、自分の学校を作る準備を進めた。1898年には、アメリカで開かれた女性の大会に日本の代表として出席し、その後に渡ったイギリスでは、老いたナイチンゲールを訪ねている。

1900年、東京の麹町で、帰国して開いた女子英学塾は、生徒10人、借家からの出発になる(女子英学塾の創設)。華族女学校の職を辞めての決断だった。捨松が顧問を引き受け、アメリカ時代の友人アリス・ベーコンが無給で教え、アメリカの支援者たちが寄付を送った。掲げたのは「良妻賢母」ではなく、女性が職業として自立するための専門教育だった。開校式で梅子は、立派な校舎や設備ではなく、教える者の熱意と学ぶ者の努力こそが真の教育を作る、と語った。授業は厳しく、予習をしてこない生徒は容赦なく叱られた。1905年、塾の卒業生は試験なしで英語の教員の免許を得られるようになり、女性が教師として自立する道が開かれた。

1872年2月、シカゴ滞在中の女子留学生5名 。左から、永井繁子、上田悌子、吉益亮子、津田梅子、山川捨松。
1872年2月、シカゴ滞在中の女子留学生5名 。左から、永井繁子、上田悌子、吉益亮子、津田梅子、山川捨松。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

晩年は病に苦しみ、1919年に塾の運営から退いた。1923年の関東大震災で校舎は焼けたが、アメリカの支援で再建が進み、郊外の小平に新しい校舎が建てられた。梅子はその完成を見ないまま、1929年8月16日、鎌倉の別荘で死んだ。64歳だった。

生涯結婚しなかった。塾は彼女の名を取って津田英学塾となり、戦後は津田塾大学になった。女性が学問を職業にすることが例外だった時代に、その例外を制度にした人だった。2024年から五千円札の肖像になっている。

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