満載喫水線
概要
19世紀のイギリスで、老朽船に過積みして沈没させ、保険金を得る商法があった。「棺桶船」。船員は乗船を拒めば投獄された。議員サミュエル・プリムソルが、船主の議員たちを相手に10年戦い、議場で「人殺し」と叫んで退場処分になった。1876年の商船法で、船腹に丸に横線の印を義務づけた。この線より下に沈めてはならない。塩分と季節で必要な余裕が違うので、印は数本の線でできている。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
サミュエル・プリムソルAD1824年2月10日–AD1898年6月3日 · たたかった本文
19世紀の半ば、イギリスは世界の海運の大きな部分を握っていた。スエズ運河の開通が開いた1869年以後、汽船の時代はさらに加速する。だがその繁栄の陰で、イギリスの船乗りは、命の危うい仕事に就いていた。毎年、何百隻もの船がイギリスの沿岸と外洋で沈み、多くの船員が帰らなかった。
沈む理由の一つは、船の古さと積み過ぎだった。使い古した船を安く買い、ろくに修理もせずに、積めるだけの荷を積んで出す。船体が水に深く沈みこめば、ちょっとした嵐の波が甲板を洗い、船は耐えきれなくなる。そこに保険が絡んだ。船と積荷に実際の値打ちを超える保険を掛けておけば、船が沈んでも船主は損をしない。むしろ儲かることさえあった。こうした船は「棺桶船」と呼ばれた。海上保険は本来、海の危険を大勢で分けあうための仕組みだったが(ロイズと海上保険)、それが逆に、船を沈める動機にもなっていたのである。

船員の側には逃げ道がなかった。当時の法律では、雇用の契約を結んだあとで乗船を拒めば、職場放棄の罪に問われ、牢に入れられた。この船は危ないと分かっていても、乗るか、刑務所へ行くかしか選べなかった。
この問題に生涯をかけたのが、サミュエル・プリムソルである。1824年にブリストルで生まれ、シェフィールドで育った。若いころはロンドンで石炭商として身を立てようとして失敗し、一時は住む所にも困るほど貧しい暮らしを経験した。この経験が、貧しい人々への強い共感を彼に植えつけたと、自ら語っている。のちに事業を立て直し、1868年にダービー選出の下院議員になった。

議員になったプリムソルは、船乗りの遺族から話を聞くうちに、この問題にのめりこんでいった。だが下院には、船主や海運業に利害を持つ議員が多くいた。彼らは、規制はイギリスの海運の競争力を損なう、と強く反対した。
1873年、プリムソルは『我らの船乗り』という本を自費で出した。沈んだ船の名と、死んだ船員の数と、その船を出した船主の名を、具体的に並べた告発の書である。本は大きな反響を呼び、政府は危険な船について調べる王立委員会を設けた。一方で、名指しされた船主からは名誉毀損で訴えられ、彼は多額の費用を負うことになった。
1875年7月22日、政府は、船の安全のための法案を今の会期では見送ると下院で発表した。プリムソルは立ち上がり、議場の中央に進み出て、船乗りを死に送る悪党どもの正体を暴いてみせる、と叫び、船主の議員たちを名指しして拳を振り上げた。議長に制されても従わず、議場から退くよう命じられた。
この騒ぎは、翌日の新聞で大きく報じられた。世論は一気にプリムソルの側に傾き、各地で集会が開かれ、政府に抗議の声が寄せられた。政府は方針を変え、まず急ぎの暫定法を通し、翌1876年には商船法を成立させた。
この法で、船の舷側に印をつけることが義務づけられた。円と、その中心を横切る一本の線である。荷を積んで船が沈みこむとき、水面がこの線より上に来てはならない。のちには、円の横に「はしご」のような何本もの短い線が加えられた。真水は海水より軽く、船は深く沈む。熱帯の穏やかな海と、冬の北大西洋の荒れた海とでは、必要な余裕が違う。だから、熱帯の真水、真水、熱帯、夏、冬、冬の北大西洋と、条件ごとに沈んでよい深さを示す線が並ぶ。円の両脇には、線の位置を認めた船級協会の頭文字が入る。
ただ、1876年の法には大きな抜け穴があった。線をどこに引くかを、船主自身に任せたのである。舷側のいちばん高い所に線を描いた船もあったと伝えられる。政府の商務省が線の位置を決めるようになったのは、1890年の改正からだった。
プリムソルの線は、やがてイギリスの外へ広がった。1930年に満載喫水線についての国際条約が結ばれ、1966年に新しい条約に改められた。いまでは世界のほとんどすべての商船が、この印を舷側につけて海を行く。人々はこの印を、彼の名をとって「プリムソル・ライン」と呼ぶ。ゴム底と布の上部の境目の線がこの印に似ていることから、運動靴の一種が「プリムソル」と呼ばれるようになったのも、この線の名残である。
プリムソルは1880年に議席を後進に譲った。その後も船員の組合の名誉会長として、家畜を運ぶ船のひどい扱いを告発するなど、海で働く人々のための運動を続け、1898年に世を去った。ロンドンのテムズ河岸には、1929年に船員の組合が建てた彼の記念の胸像があり、そこには「船乗りの友」と刻まれている。