できごと

満載喫水線

The Plimsoll line
AD1876年
重要度 4
ロシア帝国大英帝国デンマークオスマン帝国ポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア帝国エジプトドイツ帝国スペインフランスモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国TripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1876年ロンドン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1876年の版図を描いています(23勢力)。

概要

19世紀のイギリスで、老朽船に過積みして沈没させ、保険金を得る商法があった。「棺桶船」。船員は乗船を拒めば投獄された。議員サミュエル・プリムソルが、船主の議員たちを相手に10年戦い、議場で「人殺し」と叫んで退場処分になった。1876年の商船法で、船腹に丸に横線の印を義務づけた。この線より下に沈めてはならない。塩分と季節で必要な余裕が違うので、印は数本の線でできている。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

サミュエル・プリムソルAD1824年2月10日–AD1898年6月3日 · たたかった

本文

19世紀の半ば、イギリスは世界の海運の大きな部分を握っていた。スエズ運河の開通が開いた1869年以後、汽船の時代はさらに加速する。だがその繁栄の陰で、イギリスの船乗りは、命の危うい仕事に就いていた。毎年、何百隻もの船がイギリスの沿岸と外洋で沈み、多くの船員が帰らなかった。

沈む理由の一つは、船の古さと積み過ぎだった。使い古した船を安く買い、ろくに修理もせずに、積めるだけの荷を積んで出す。船体が水に深く沈みこめば、ちょっとした嵐の波が甲板を洗い、船は耐えきれなくなる。そこに保険が絡んだ。船と積荷に実際の値打ちを超える保険を掛けておけば、船が沈んでも船主は損をしない。むしろ儲かることさえあった。こうした船は「棺桶船」と呼ばれた。海上保険は本来、海の危険を大勢で分けあうための仕組みだったが(ロイズと海上保険)、それが逆に、船を沈める動機にもなっていたのである。

ドラフトマーク(艦首にある喫水目盛)
ドラフトマーク(艦首にある喫水目盛)Wikimedia Commons Wikisearcher · Public domain

船員の側には逃げ道がなかった。当時の法律では、雇用の契約を結んだあとで乗船を拒めば、職場放棄の罪に問われ、牢に入れられた。この船は危ないと分かっていても、乗るか、刑務所へ行くかしか選べなかった。

この問題に生涯をかけたのが、サミュエル・プリムソルである。1824年にブリストルで生まれ、シェフィールドで育った。若いころはロンドンで石炭商として身を立てようとして失敗し、一時は住む所にも困るほど貧しい暮らしを経験した。この経験が、貧しい人々への強い共感を彼に植えつけたと、自ら語っている。のちに事業を立て直し、1868年にダービー選出の下院議員になった。

サミュエル・プリムソルの肖像
サミュエル・プリムソルWikimedia Commons Samuel Robert Lock / George C. Whitfield / Adam Cuerden · Public domain

議員になったプリムソルは、船乗りの遺族から話を聞くうちに、この問題にのめりこんでいった。だが下院には、船主や海運業に利害を持つ議員が多くいた。彼らは、規制はイギリスの海運の競争力を損なう、と強く反対した。

1873年、プリムソルは『我らの船乗り』という本を自費で出した。沈んだ船の名と、死んだ船員の数と、その船を出した船主の名を、具体的に並べた告発の書である。本は大きな反響を呼び、政府は危険な船について調べる王立委員会を設けた。一方で、名指しされた船主からは名誉毀損で訴えられ、彼は多額の費用を負うことになった。

1875年7月22日、政府は、船の安全のための法案を今の会期では見送ると下院で発表した。プリムソルは立ち上がり、議場の中央に進み出て、船乗りを死に送る悪党どもの正体を暴いてみせる、と叫び、船主の議員たちを名指しして拳を振り上げた。議長に制されても従わず、議場から退くよう命じられた。

この騒ぎは、翌日の新聞で大きく報じられた。世論は一気にプリムソルの側に傾き、各地で集会が開かれ、政府に抗議の声が寄せられた。政府は方針を変え、まず急ぎの暫定法を通し、翌1876年には商船法を成立させた。

この法で、船の舷側に印をつけることが義務づけられた。円と、その中心を横切る一本の線である。荷を積んで船が沈みこむとき、水面がこの線より上に来てはならない。のちには、円の横に「はしご」のような何本もの短い線が加えられた。真水は海水より軽く、船は深く沈む。熱帯の穏やかな海と、冬の北大西洋の荒れた海とでは、必要な余裕が違う。だから、熱帯の真水、真水、熱帯、夏、冬、冬の北大西洋と、条件ごとに沈んでよい深さを示す線が並ぶ。円の両脇には、線の位置を認めた船級協会の頭文字が入る。

ただ、1876年の法には大きな抜け穴があった。線をどこに引くかを、船主自身に任せたのである。舷側のいちばん高い所に線を描いた船もあったと伝えられる。政府の商務省が線の位置を決めるようになったのは、1890年の改正からだった。

プリムソルの線は、やがてイギリスの外へ広がった。1930年に満載喫水線についての国際条約が結ばれ、1966年に新しい条約に改められた。いまでは世界のほとんどすべての商船が、この印を舷側につけて海を行く。人々はこの印を、彼の名をとって「プリムソル・ライン」と呼ぶ。ゴム底と布の上部の境目の線がこの印に似ていることから、運動靴の一種が「プリムソル」と呼ばれるようになったのも、この線の名残である。

プリムソルは1880年に議席を後進に譲った。その後も船員の組合の名誉会長として、家畜を運ぶ船のひどい扱いを告発するなど、海で働く人々のための運動を続け、1898年に世を去った。ロンドンのテムズ河岸には、1929年に船員の組合が建てた彼の記念の胸像があり、そこには「船乗りの友」と刻まれている。

同じ時代のできごと

秘密投票AD1856年モーヴと合成染料AD1856年アロー戦争(第二次アヘン戦争)AD1856年10月8日ゴム長靴AD1856年『ボヴァリー夫人』裁判AD1857年1月31日オックスフォード英語辞典AD1857年迷子しるべ石AD1857年(安政4年)2月発酵は生き物の仕事であるAD1857年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1876年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →