ルクレシア・モット
概要
ナンタケットのクエーカー。女性の説教者。同じ仕事で男の教師の半分の給料しかもらえなかったことが、出発点だった。奴隷の労働で作られた綿と砂糖を買わない運動。自宅を「地下鉄道」の駅にした。セネカ・フォールズの会議を開き、女性が公衆の前で話すこと自体が非難された時代に、話し続けた。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
セネカ・フォールズ会議AD1848年7月19日 · 開いた本文
ルクレシア・モット(旧姓コフィン)は1793年1月3日、マサチューセッツ州の沖に浮かぶナンタケット島で生まれた。捕鯨で栄えた島で、住民の多くはクエーカー(キリスト友会)だった。父トマス・コフィンは捕鯨船の船長で、航海に出ると何年も帰らなかった。その間、島の女たちは店を切り回し、商売の帳簿をつけ、家の財産を管理した。母もそうだった。彼女はのちに、女が有能であることを当たり前のこととして育った、と語っている。

一家はやがてボストン、さらにフィラデルフィアに移った。13歳でニューヨーク州のナイン・パートナーズというクエーカーの寄宿学校に入った。男女がともに学ぶ学校で、彼女は優秀な生徒として、卒業後そのまま助教師に残った。そこで、同じ仕事をしていても女の教師の給料は男の教師の半分にも満たないことを知った。この不公平が、女性の権利に目を向けるきっかけになったと、彼女は後に書いている。同じ学校の教師だったジェイムズ・モットと1811年に結婚し、フィラデルフィアで6人の子を育てた(1人は幼くして死んだ)。
クエーカーは、性別を問わず、内なる光に動かされた者が集会で語ることを認めていた。ほとんどの教派で女性が会衆の前で話すことが考えられなかった時代に、これは例外的な伝統だった。モットは集会での語りが評価され、1821年、28歳で正式に「ミニスター(語り手)」と認められた。以後、彼女は落ち着いた声と明快な論理で知られる説教者として各地を回った。1827年にクエーカーが神学上の対立から分裂すると、彼女はより自由主義的なヒックス派に加わった。

彼女の活動の中心は奴隷制の廃止だった。奴隷の労働で作られた品を買わないという「自由生産物」の運動に加わり、綿の布と砂糖を長年にわたって使わなかった。1833年、フィラデルフィアで開かれたアメリカ反奴隷制協会の創立大会に出席し、発言もしたが、女性は宣言への署名を求められなかった。彼女は数日のうちに、白人と黒人の女性がともに参加するフィラデルフィア女性反奴隷制協会を作った。
廃止運動は身の危険を伴った。1838年5月、廃止論者たちが資金を出し合って建てた集会所ペンシルベニア・ホールが、開館からわずか3日で暴徒に焼き払われた。白人と黒人の男女が並んで集会に出ていたことが、群衆の怒りに火をつけた。暴徒は次にモットの家へ向かおうとしたが、知人が群衆に紛れ込み、先頭に立って「こっちだ」と別の方向へ導いたため、家は無事だった。その夜、彼女は家族とともに居間で、何が来ても受け止めるつもりで待っていたという。モット家は逃亡奴隷をかくまい、北へ送り出す手助けもしていた。

1840年、彼女は代表としてロンドンの世界反奴隷制会議に渡った。ところが会議は女性代表の着席を認めず、彼女たちは仕切りの後ろの傍聴席に座らされた。そこで出会ったのが、新婚旅行で夫に同行していた25歳のエリザベス・キャディ・スタントンである。47歳のモットと若いスタントンは、会議のあとロンドンの街を歩きながら、いつか女性の権利のための集会を開こうと話し合った。
その約束が実ったのが、8年後のセネカ・フォールズ会議だった。1848年7月、ニューヨーク州の小さな町で開かれたこの集会は、名の知られた説教者モットが来るということで人を集めた。スタントンが起草した「所感の宣言」は、独立宣言の言葉をなぞって、すべての男と女は平等に造られたと記した。女性の選挙権を求める決議には、モットは慎重だった。それを掲げれば運動全体が笑いものになると恐れたのである。決議は僅差で通った。集会の議長を務めたのは夫のジェイムズだった。女性自身が公の会議を取り仕切ることに、まだ誰もがためらっていた時代である。

1849年、彼女は女性を男性より劣った存在とする講演への反論として講演を行い、翌年『女性についての講話』として出版した。女性に必要なのは押しつけの保護や恩恵ではなく、正当な権利と、自分の力を伸ばす機会だ、という主張である。
南北戦争の後も、彼女は活動をやめなかった。1866年、黒人と女性の参政権をともに求めるアメリカ平等権協会の初代会長となった。その後、運動が黒人男性の投票権を優先するかどうかで割れると、彼女は両派の間を取り持とうとした。先住民の権利や平和運動にも関わり、男女共学のスワースモア大学の創設(1864年)にも力を貸した。

1880年11月11日、彼女はフィラデルフィア近郊の自宅で死んだ。87歳。葬儀には大勢が集まったが、クエーカーの式は語りたい者が語る形で、長い沈黙が続いた。やがて誰かが「誰も話さないのか」とつぶやき、別の声が「語り手は亡くなったのだ」と答えた、と伝えられる。女性の参政権が合衆国憲法に書き込まれたのは、彼女の死から40年後の1920年だった。