できごと

女子英学塾の創設

Tsuda University
AD1900年
重要度 3
大英帝国ロシア帝国清イギリス領インド帝国フランス領インドシナラタナコーシン朝(シャム)日本朝鮮王朝フィリピンAD1900年東京
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1900年の版図を描いています(9勢力)。

概要

6歳で渡米した女性が、帰国後に女性のための高等教育の場を作った。

場所

東京
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都

関わった人(1)

津田梅子AD1864年12月31日–AD1929年8月16日 · 当人

本文

1871年12月、横浜を出た岩倉使節団の船に、5人の少女が乗っていた。北海道の開拓を進める開拓使が、将来の開拓を担う人材の母となる女性を育てるとして、アメリカへ送り出した最初の女子留学生である。最年少の津田梅子は満6歳だった。旧幕臣で、西洋の農業を学んだ津田仙の次女である。

梅子はワシントン近郊のジョージタウンで、日本公使館に勤めるチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられた。子どものいない夫妻は彼女をわが子のようにかわいがり、梅子は現地の学校に通い、キリスト教の洗礼を受け、英語で考え、英語で夢を見る少女に育った。年長の2人の少女は体を壊すなどして早くに帰国したが、梅子と、山川捨松、永井繁子の3人は残って学んだ。

津田梅子の肖像
津田梅子Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1882年、11年ぶりに帰国した17歳の梅子は、日本語をほとんど忘れていた。父や姉とも通訳なしでは話せなかったという。しかも日本には、国費で学んだ彼女たちを生かす場が無かった。官職は男性のもので、女性が就ける仕事はほとんど無い。捨松は陸軍卿の大山巌と、繁子は海軍軍人の瓜生外吉と結婚した。梅子にも縁談が持ち込まれたが、彼女は応じなかった。アメリカの養母に宛てた手紙には、愛情の無い結婚をして男性に仕えるために生きることはしたくない、という思いが繰り返し書かれている。

伊藤博文の家で英語の家庭教師と通訳をした縁で、1885年、華族の子女のために作られた華族女学校の英語教師になった。だが、上流の娘たちに行儀作法の一部として英語を教える仕事に、梅子は満足できなかった。1889年、もう一度アメリカに渡り、フィラデルフィア近郊の女子大学ブリンマー大学で生物学を学んだ。のちに遺伝学でノーベル賞を受けるトマス・ハント・モーガンのもとで、カエルの卵の発生について研究し、モーガンとの共著で論文を発表している。大学は彼女に残って研究を続けることを勧めた。

それでも梅子は1892年に帰国した。日本の女性が自分で学び、自分で生きる力を持つための学校を作ること。それがアメリカで学んだ自分の役目だと考えたからである。在米中、彼女はアメリカの女性たちに呼びかけて、日本の女性をアメリカの大学へ留学させるための奨学金を作っていた。この奨学金で後に何人もの日本女性が海を渡った。

帰国後、梅子は華族女学校に戻り、女子高等師範学校でも教えた。1898年には、アメリカでの女性団体の大会に日本の代表として出席し、その後イギリスにも渡って見聞を広めた。そのころ日本では、1899年の高等女学校令で女子の中等教育の制度が整えられた。そこで掲げられた目標は「良妻賢母」、よき妻、賢い母を育てることだった。女性の教育は、家の中で夫と子に尽くすためのものとされていた(明治民法と家制度)。

1900年、梅子は安定した官立学校の職を辞し、東京の麹町一番町の小さな借家で、女子英学塾を開いた。9月の開校式に集まった生徒は10人ほどだった。梅子はその式で、立派な校舎や設備ではなく、教える者の熱意と、学ぶ者の熱心さこそが真の教育を作る、と述べ、一人ひとりの個性に応じて教えたいと語った。また、英語だけに偏らず、広い教養を持つ「オールラウンド・ウーマン」になってほしいと生徒に求めた。

学校の目的は、英語の教員をはじめ、女性が職業を持って自立するための力を育てることにあった。授業は少人数で、英語で行われることが多く、厳しかった。開校を支えたのは、少女時代の留学の仲間だった大山捨松と瓜生繁子、そして梅子の留学時代からの友人で、来日して無給で教えたアメリカ人のアリス・ベーコンだった。資金の多くはアメリカの支援者からの寄付に頼った。梅子自身も給料を取らずに働いたという。

1903年に専門学校令が出ると、女子英学塾はその認可を受けた。1905年には、卒業生が試験なしで英語の中等教員の免許を得られるようになった。女性が自分の資格で職業に就く道が、ここで一つ開けたことになる。女子英学塾と同じころ、東京では女子医学の学校や、日本女子大学校も相次いで生まれている。女子の高等教育は、官立の大学が女性を受け入れない中、私立の学校が切り開いていった。

梅子は生涯結婚しなかった。体を壊して1919年に塾長を退き、1929年に64歳で世を去った。1923年の関東大震災で校舎は焼けたが、アメリカからの寄付で再建が進み、1931年に東京の西郊の小平に移った。学校は1933年に津田英学塾と名を改め、戦後の1948年、新しい学制のもとで津田塾大学になった。

2024年、新しく刷られた5000円札に、津田梅子の肖像が使われた。6歳で海を渡った少女が、帰国後に味わった居場所の無さを、後に続く女性たちのための学校に変えた。その学校は、良妻賢母が女性の教育の目標とされた時代に、職業を持って自分の足で立つ女性を育てようとした最初期の場の一つだった(物語「明治・大正の文化 — 文明開化から大衆文化へ」)。

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