百年戦争
概要
116年に及ぶ英仏の争い。この過程で両国に「国民」という意識が育つ。
場所
50.46°N 2.14°E · フランス
関わった人(1)
ジャンヌ・ダルクAD1412年–AD1431年5月30日 · 流れを変えた本文
1337年から1453年まで、イングランドとフランスは116年にわたって争った。もっとも、その間ずっと戦っていたわけではない。数年から十数年の休戦をはさみながら、戦いと和平を繰り返した。「百年戦争」という呼び名も、当時の人々が使ったものではなく、19世紀の歴史家がつけたものである。
争いの根は、1066年のノルマン人の征服にさかのぼる(ヘイスティングズの戦い)。フランスのノルマンディー公がイングランド王になったことで、イングランドの王はフランスにも領地を持ち続けた。12世紀にはフランスの西半分を支配したこともある。13世紀の初めにその多くを失ったが、南西部のギュイエンヌ(アキテーヌ)は残った。ここでイングランド王は、フランス王の家臣という立場にある。一つの国の王が、別の国の王に臣下として頭を下げる。封建制ならではの入り組んだ関係だった。

1328年、フランスのカペー家の王シャルル4世が男子の跡継ぎを残さずに亡くなった。イングランド王エドワード3世は、母がフランス王フィリップ4世の娘だったことから、自分にも王位の資格があると考えた。だがフランスの貴族たちは、女性を通した継承を認めず、王家の分家であるヴァロワ家のフィリップ6世を王に選んだ。経済の利害も絡んでいた。イングランドの羊毛を買って毛織物を作るフランドルの都市は、フランス王の支配を嫌い、イングランドと結びたがっていた。フランスはイングランドと争うスコットランドと同盟していた。1337年、フィリップ6世がギュイエンヌの没収を宣言し、エドワード3世はフランス王位を要求して、戦争が始まった。
前半の戦いは、イングランドの圧倒的な勝利が続いた。1346年のクレシーの戦い(クレシーの戦い)では、イングランドの長弓兵が、突撃してくるフランスの騎士たちを矢の雨で倒した。翌年には港町カレーを奪い、ここは以後200年あまりイングランドの領土となる。1356年のポワティエの戦い(ポワティエの戦い(1356年))では、エドワードの長男で黒太子と呼ばれたエドワード黒太子が、フランス王ジャン2世を捕虜にした。

戦争は、戦場の外の人々も苦しめた。1348年からは黒死病(黒死病)が両国を襲い、人口の3分の1ほどが失われたといわれる。イングランド軍は、フランスの村を焼き払いながら進む騎行と呼ばれる作戦をとった。休戦の間も、雇い主を失った傭兵の集団が田舎を荒らし回った。フランスでは1358年にジャックリーと呼ばれる農民の反乱が起き、イングランドでも1381年、戦費のための人頭税に怒った農民が立ち上がっている(ワット・タイラーの乱)。
その後フランスは、賢明と呼ばれたシャルル5世のもとで失った土地の多くを取り戻すが、次のシャルル6世が心の病に冒されると、王族どうしがブルゴーニュ派とアルマニャック派に分かれて争いはじめた。この隙を突いたのが、イングランド王ヘンリー5世である。1415年、ヘンリーはアザンクールの戦い(アザンクールの戦い)で、数で勝るフランス軍を再び長弓で破った。ブルゴーニュ公と手を結んだヘンリーは、1420年のトロワ条約で、シャルル6世の娘と結婚し、シャルル6世が死んだらフランスの王位を継ぐと認めさせた。フランスの王太子シャルルは、跡継ぎの資格を奪われた。

ところが1422年、ヘンリー5世とシャルル6世が相次いで亡くなる。イングランド王を継いだヘンリー6世は生まれて1年に満たない赤子だった。イングランド軍は王太子の側に残された最後の拠点の一つ、ロワール川の要地オルレアンを1428年に包囲した。
そこに現れたのが、東部の村の農民の娘ジャンヌ・ダルクだった。神の声に導かれたと語るジャンヌは、王太子に会い、軍とともにオルレアンに入り、1429年5月に包囲を解いた。7月には、王太子を伝統の戴冠の地ランスへ導き、シャルル7世として戴冠させた。ジャンヌはその翌年、ブルゴーニュ派に捕らえられてイングランドに引き渡され、1431年、ルーアンで異端として火あぶりにされた。19歳前後だった。
流れはフランスに傾いた。1435年、ブルゴーニュ公がイングランドを見限ってシャルル7世と和解し、翌年パリが取り戻された。シャルル7世は、国王が常に抱える軍隊を作り、そのための税を毎年取り立てる仕組みを整えた。大砲を多く揃えたのも大きかった。1450年にノルマンディーを、1453年にはギュイエンヌを取り戻す。7月のカスティヨンの戦いでは、フランスの砲兵がイングランド軍を打ち砕いた。10月にボルドーが降伏し、戦いは事実上終わった。講和条約は結ばれていない。同じ1453年の5月には、東でコンスタンティノープルがオスマン帝国に落ちている(コンスタンティノープル陥落)。

終わったとき、イングランドは大陸の領地のほとんどを失い、カレーを残すだけになった。そのカレーも1558年に失う。イングランドは島の国になった。それでもイングランドの王たちは、1801年までフランス王の称号を名乗り続けた。敗戦の2年後、イングランドでは王位をめぐる内乱、薔薇戦争が始まる。
116年の戦いは、両国の形を変えた。長弓が騎士を倒し、最後には大砲が城壁と陣を打ち砕いて、馬に乗った騎士が戦場の主役である時代が終わっていった。戦費をまかなうために、両国の王は議会や身分制議会を開いて税を求め、王の財政と軍の仕組みが整っていく。イングランドでは、この戦争の間に、宮廷や法廷でフランス語に代わって英語が使われるようになった。王に仕える騎士としてではなく、「フランス人」「イングランド人」として敵と向き合う意識が、この長い戦いの中で育ったといわれる。