ミシンと分割払い
概要
手縫いでシャツ1枚に14時間かかった。ミシンなら1時間である。1846年にハウが本縫いの機構を特許にし、1851年にシンガーが実用的な足踏み式を作った。特許の争いが泥沼化し、1856年、各社が特許を持ち寄る共同管理(世界最初のパテント・プール)で決着した。シンガーの発明はむしろ売り方にある。高価な機械を、月賦で家庭に売った。分割払いという仕組みが、ここから消費財に広がる。同時に、縫製工場と既製服の産業が生まれた。
場所
42.36°N -71.06°E · アメリカ・マサチューセッツ州
関わった人(1)
アイザック・シンガーAD1811年10月27日–AD1875年7月23日 · 売った本文
19世紀の前半、男物のシャツを一枚手で縫い上げるには、腕のいい縫い子でも十数時間かかった。服は高価な財産だった。働く人々は一生に数着しか服を持たず、古着を売り買いする市場が大きな商売として成り立っていた。服は繕っては着て、人に譲り、また繕った。遺言状に、衣服が大事な財産として書き並べられることも珍しくなかった。
縫う手間を機械に任せようとする試みは、18世紀から続いていた。1755年には、ロンドンに住むドイツ人チャールズ・ワイゼンタールが、両端がとがり中ほどに穴のある機械用の針の特許を取った。1790年には、イギリスのトマス・セイントが革を縫う機械の特許を取ったが、その図面は特許の書類の山に埋もれ、1874年になって見つかった。図面どおりに作ってみると、そのままでは動かず、手を加えてようやく動いたという。

1830年、フランスの仕立屋バルテルミー・ティモニエは、かぎ針を使って鎖のような縫い目を作る機械を発明し、軍服を縫う工場を開いた。ところが翌年、仕事を奪われることを恐れた仕立屋たちが工場を襲い、機械を壊した。ティモニエは逃げ延び、工場を建て直したが、再び壊され、貧しさのうちに世を去った。機械が手仕事の職人の暮らしを脅かすという恐れは、ミシンの歴史にずっとついて回る。
いまのミシンの基本になる縫い方を最初に作ったのは、ニューヨークのウォルター・ハントとされる。1830年代の初め、彼は、上糸を通した針と、下糸を巻いた舟形の部品が、布の上と下で糸を絡ませる「本縫い」の仕組みを考えた。だが特許は取らなかった。縫い子たちの仕事を奪うことをためらったからだと伝えられる。ハントは安全ピンの発明者でもあり、借金を返すために、その特許をわずか400ドルで売ってしまった人物である。

1846年9月10日、マサチューセッツの機械工イライアス・ハウが、本縫いのミシンでアメリカの特許を取った。針の先端近くに糸の穴を開けるという工夫は、槍を持った者たちに捕らえられる夢を見て、その槍の穂先に穴が開いていたことから思いついたという話が、彼の生前から語られている。だがハウの機械は売れなかった。資金に困った彼はイギリスに渡ってわずかな金で権利の一部を売り、無一文で帰国すると、妻は病で死の床にあった。
ここに現れたのが、アイザック・シンガーである。1811年、ニューヨーク州の貧しい家に生まれ、12歳で家を出て機械工として働く一方、旅回りの劇団を作ってシェイクスピアを演じた。本当になりたかったのは役者だったと言われる。岩を掘る機械や木を彫る機械を発明したが、どれも売れなかった。1850年、ボストンの工場で、彼は修理のために持ち込まれたミシンを見た。そしてわずか11日ほどで、はるかに使いやすい改良型を作り上げた。

シンガーの改良は、使う人の身になったものだった。針はまっすぐ上下に動き、布は平らな台の上に置いて押さえ金で押さえる。足踏みのペダルで機械を動かすので、両手が空いて布を送ることに集中できる。途中で止めて向きを変え、また縫い始められるので、曲線も縫える。シンガーは、すでにあった仕組みを組み合わせて、実際の仕事で役に立つ機械にしたのである。
1851年にシンガーが特許を取ると、ハウが訴えた。本縫いの仕組みは自分の特許を侵している、というのである。シンガーは法廷で敗れ、1854年からはミシンを売るたびにハウに使用料を払うことになった。ほかの会社の間でも訴訟が入り乱れた。どの会社も、他社の特許に触れずにまともなミシンを作ることはできなかったのである。

特許の争いに勝ったハウは、一転して豊かになった。ミシンが売れるたびに使用料が入り、その額は生涯で200万ドル近くに達したとされる。南北戦争が始まると、彼は自分の金で北軍の連隊の装備を整え、自らもその連隊に一兵卒として加わった。そして戦争が終わって間もない1867年、特許の期限の延長が切れた年に、48歳で世を去った。
泥沼を抜け出すために、1856年、ある会社の社長で弁護士のオーランド・ポッターが、一つの案を出した。シンガー、ハウ、そして二つの有力なミシン会社が、それぞれの特許を持ち寄って共同で管理する。仲間どうしは互いの特許を自由に使い、外の会社が使うときには使用料を取って分け合う。「ミシン連合」と呼ばれたこの仕組みは、世界で最初の特許の共同管理とされる。主な特許の期限が切れた1877年に解散すると、ミシンの値段は大きく下がり、市場はさらに広がった。

シンガーの本当の発明は、機械よりも売り方にあった。それを考え出したのは、共同経営者の弁護士エドワード・クラークである。最初期のシンガーのミシンは一台100ドルを超え、働く人の年収の何分の一にもあたった。そこでクラークは、少しの頭金で機械を渡し、残りを毎月少しずつ払ってもらう方法を始めた。
初めは、機械を貸して借り賃を取り、その合計が代金に達したら持ち主にする、という形だった。高価な機械を分割払いで家庭に売るという、耐久消費財の分割払いの最も早い大きな例である。この売り方はやがて自動車や家電製品、住宅にまで広がっていく。

シンガー社は、ほかにも新しい売り方を次々に試した。古いミシンを引き取って値引きする下取り。店の窓際で女性が実際に縫ってみせる実演販売。当時、機械は男が扱うものと思われていたので、女性にも簡単に使えることを目の前で見せる必要があった。
世界中に直営の販売店を開き、1867年にはスコットランドのグラスゴーに工場を建て、20世紀の初めにはロシアにも工場を持った。19世紀に最も多く広告に金をかけた会社の一つでもあり、世界各地の民族衣装の女性がシンガーのミシンを使う絵のカードなどを配った。19世紀の終わりには、世界のミシン市場の大半を握っていた。
ミシンは、服の作られ方を変えた。それまで服は、仕立屋に注文して作るか、家で縫うものだった。ミシンによって、同じ寸法の服を大量に作ることができるようになった。服の大きさをそろえる規格は、南北戦争で何十万人もの兵士の軍服を作る必要から進んだとされ、戦後、店で既製の服を買うことが広まっていった(既製服)。

安く服が作れるようになった陰で、その現場は過酷だった。ニューヨークのロウアー・イースト・サイドやロンドンのイースト・エンドでは、移民の女性たちが狭い部屋に詰め込まれ、朝から夜までミシンを踏んだ。1911年、ニューヨークの縫製工場で起きた火災では、非常口に鍵がかけられていたために146人が命を落とした(トライアングル・シャツウエスト工場の火災)。
家庭にもミシンは入った。19世紀後半の欧米の中流の家庭で、ミシンはたいてい最初に買う高価な機械だった。縫い物の時間は大きく減った。ただ歴史家たちは、そのぶん家族の服の数が増え、飾りが凝ったものになり、家族の服は母親が縫うものだという期待がかえって強まったことを指摘している。浮いた時間は、別の家事に吸い込まれていった。

シンガー本人は莫大な富を得たが、私生活は世間を驚かせるものだった。同じ時期にいくつもの家庭を持ち、妻と何人もの内縁の妻との間に20人を超える子どもがいた。家族どうしは互いの存在を知らなかった。1860年、ニューヨークの街で、馬車に乗った彼と別の「妻」とが鉢合わせしたことから騒ぎが新聞に載り、やがて彼はアメリカを離れた。
パリを経て、イギリス南西部のトーキーに百を超える部屋のある大邸宅を建て、1875年7月23日、そこで63歳の生涯を終えた。遺産をめぐって子どもたちの間で訴訟が起きた。息子の一人パリス・シンガーは、舞踊家イサドラ・ダンカンの恋人になった。娘のウィナレッタはパリの社交界で音楽家たちを支え、ストラヴィンスキーやサティ、ファリャに作品を頼んだ。
いまも、百年前の足踏み式のシンガーのミシンが、電気の無い土地で使われている。そして私たちが着ている服の多くは、南アジアや東南アジアの工場で、女性たちがミシンで縫ったものである。縫う手間を減らした機械と、それを月々の支払いで手に入れる仕組みが、服とお金の両方の暮らしを変えたのである。