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Person / 人

エリザベス・キャディ・スタントン

Elizabeth Cady Stanton
AD1815年11月12日 – AD1902年10月26日(享年86)
アメリカ合衆国重要度 5

概要

判事の娘。法律を学びたかったが、女は法学校に入れなかった。1840年、ロンドンの世界奴隷制反対大会で、女性代表がカーテンの後ろに座らされたことに憤って、ルクレシア・モットと会議を約束した。「所感の宣言」。7人の子を育てながら、スーザン・B・アンソニーと50年組んだ(スタントンが書き、アンソニーが歩いた)。晩年、『女の聖書』で教会を批判して、運動の中で孤立した。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

セネカ・フォールズ会議AD1848年7月19日 · 起草した

本文

1815年11月12日、ニューヨーク州ジョンズタウン。父ダニエル・キャディは弁護士で、後に州最高裁の判事。母マーガレットは背が高く、意志が強かった。11人の子のうち、6人が幼くして死んだ。

11歳のとき、唯一の成人した兄エリーアザーが、大学を出た直後に死んだ。父は棺の前で、娘に言った。「ああ、お前が男の子だったらよかったのに」。彼女は答えた。「私が、兄さんの代わりになります」。ギリシア語を学び、馬に乗り、数学を修めた。父の書斎で、法律を読んだ。

父の事務所に、女たちが来た。夫に財産を取られた妻。夫が死んで、遺言で息子に全部を残された未亡人。父は法律の条文を見せて、「これが法だ。私にはどうにもできない」と言った。彼女は本の該当箇所を切り取ろうとした。父は「切っても法は変わらない。変えたければ、議会に行きなさい」と言った。

トロイ女学校(当時、女子が受けられる最高の教育。大学には入れなかった)。従兄弟のジェリット・スミス(奴隷制廃止運動の指導者、地下鉄道の駅)の家に通って、逃亡奴隷に会った。1840年、廃止論者の講演者ヘンリー・スタントンと結婚(父は反対した)。誓約から「服従する(obey)」を削らせた。

1840年6月、ロンドン。奴隷制反対大会。カーテンの後ろ。ルクレシア・モット。

1847年、セネカ・フォールズに移った。3人(後に7人)の子。夫は仕事で不在がち。家事と育児。「私は、女の一般的な不満を、初めて自分の体で理解した」。

1848年7月、会議。「所感の宣言」。

1851年、アメリア・ブルーマー(「ブルーマー」の服を広めた人)の紹介で、スーザン・B・アンソニーに会った。50年の協働。「私は演説を書き、スーザンがそれを届けた」「彼女が事実を集め、私が矢を作った」。アンソニーは独身で、旅を続けた。スタントンは子を7人育てながら、家で書いた。アンソニーがスタントンの家に泊まり込み、子供の面倒を見ながら、原稿を待つこともあった。

1854年、ニューヨーク州議会での演説(女性として初めて)。1860年、既婚女性財産法(自分の賃金を自分のものにする権利、子供の共同親権)。

南北戦争。1863年、女性国民忠誠連盟(奴隷解放を求める請願に40万の署名)。戦後、修正第14条と第15条。黒人男性に投票権が与えられ、憲法に初めて「男性(male)」の語が入った。スタントンとアンソニーは反対した(「なぜ女が後回しなのか」)。その反対の言葉に、教育のない黒人男性への軽蔑が混じった(「サンボが投票して、私が投票できないのか」)。運動が分裂した。廃止論者の同志だったフレデリック・ダグラスとも対立した。

1869年、全国女性参政権協会(憲法修正を目指す。スタントンが会長)。1890年、和解して全米女性参政権協会(NAWSA。スタントンが初代会長、2年で退いた)。

1878年、上院に修正案が提出された(「アンソニー修正」)。1919年に通るまで、41年、毎年提出された。

『女性参政権の歴史』全6巻(アンソニー、ゲージと共編)。『女の聖書』(1895年、1898年。聖書の女性に関する箇所を、女性の学者たちと注釈し、教会の教えが女性の従属を支えていると論じた)。運動の主流は、この本と距離を置いた(1896年、NAWSAは公式に「協会はこの本と関係がない」と決議した。アンソニーが反対したが、通った)。

1902年10月26日、ニューヨークの自宅で死んだ。86歳。18年後、修正第19条。

彼女の像は、長い間、なかった。1921年、議会に贈られたモットとスタントンとアンソニーの像は、地下の物置に70年以上置かれ、1997年にようやく円形広間へ移された。