アルマダの海戦

概要
スペインの無敵艦隊が敗れた。イングランドが海洋国家へ向かう転機になる。
場所
51.46°N 0.36°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
エリザベス1世AD1533年9月7日–AD1603年 · 当人本文
1588年の夏、スペインの大艦隊がイギリス海峡に入った。およそ130隻、兵士と水夫を合わせて2万数千人。スペインでは「至福の艦隊」と呼ばれた。日本でよく使われる「無敵艦隊」という呼び名は、スペイン自身がそう名乗ったものではない。
背景には、宗教と海の利害が重なっていた。スペイン王フェリペ2世はカトリックの盟主を自任し、イングランドのエリザベス1世はプロテスタントの国の女王だった。フェリペはかつてエリザベスの異母姉メアリー1世の夫で、イングランドの共同の王だったこともある。イングランドは、スペインの支配に反抗するネーデルラントの人々を支え、1585年には軍を送っていた。フランシス・ドレークらイングランドの船乗りは、新大陸の銀を運ぶスペインの船や港を襲い、女王もそれを黙認していた(ドレークの世界周航)。1587年、エリザベスがスコットランドの元女王メアリー・スチュアートを処刑すると、フェリペはイングランド侵攻を決めた。

計画は、艦隊でイギリス海峡を進み、スペイン領ネーデルラントにいるパルマ公の陸軍を拾って、イングランドに上陸させるというものだった。ところが準備は遅れた。1587年にはドレークがスペインのカディス港を襲い、多くの船と物資を焼いた。翌年の初めには、艦隊を率いるはずだった歴戦の提督が亡くなり、代わりに大貴族のメディナ・シドニア公が総司令官に任じられた。公は、自分は海に弱く、すぐ船酔いすると言って辞退しようとしたという。
7月の末、スペインの艦隊はイングランド南西のプリマス沖に現れた。迎え撃つイングランドの艦隊は、ハワード卿が率い、ドレークがその副将だった。船の数ではイングランドもほぼ同じか、それ以上だったとされるが、小型の船や武装した商船が多く、大型の軍艦ではスペインが上回っていた。スペインの艦隊は、三日月のような形に固まって東へ進んだ。

両軍の戦い方は違っていた。スペインは、敵の船に横付けして兵が乗り移る戦い方を得意とした。イングランドの船は船首と船尾の楼が低く、速く小回りが利き、遠くまで届く砲を多く積んでいた。イングランドは近づかずに砲を撃ち、スペインはそれに乗ってこない敵を捕まえられなかった。1週間あまりにわたって海峡を東へ進みながら戦ったが、どちらも決定的な打撃を与えられなかった。
8月の初め、スペインの艦隊はフランスのカレーの沖に錨を下ろした。ところがパルマ公の陸軍は、まだ船に乗る用意ができていなかった。沿岸の浅い海はネーデルラントの小型船が見張っていて、大艦隊を迎え入れられる深い港も無い。その夜、イングランドは火をつけた船を8隻、風と潮に乗せてスペインの艦隊に向けて流した。スペインの船は慌てて錨綱を切って散り、陣形が崩れた。翌日、フランドルの沖のグラヴリーヌで、イングランドの艦隊は散らばったスペインの船に近づいて砲撃を浴びせ、数隻を沈め、または座礁させた。

南西の風に押されたスペインの艦隊は、海峡に戻れず、北海を北へ流された。メディナ・シドニア公は、スコットランドの北を回り、アイルランドの西を通って帰国することにした。ところが9月、季節外れの激しい嵐が艦隊を襲った。多くの船がアイルランドの岩だらけの海岸に打ち上げられ、浜にたどり着いた兵の多くも殺された。スペインに帰り着いたのは、出発したときのおよそ3分の2の船で、失われた人命は1万5000とも、それ以上ともいわれる。イングランドの側も、戦いの後に船の中で病が広がり、数千人の水兵が亡くなっている。
勝因は、イングランドの船と砲、火船の策、パルマ公との連携の難しさ、そして天候が重なったものだった。イングランドは戦いの後、「神が風を吹かせ、彼らは散った」という意味の言葉を刻んだメダルを作った。

8月、侵攻の恐れがまだ去っていないなかで、エリザベスはテムズ川の河口に近いティルベリーの陣を訪れ、兵士たちを前に演説した。私はか弱い女の体を持っているが、王の心と胃袋を持っている、という言葉が伝わっている。ただし演説の文面が記録されたのは30年以上たってからの手紙で、実際にその通りに言ったかどうかは確かめられていない。実際には、演説が行われたときには、スペインの艦隊はすでに北海へ去った後で、イングランドの側はまだそれを知らなかった。
アルマダの敗北で、戦争が終わったわけではない。翌年イングランドが送った反撃の艦隊は失敗し、スペインはその後も艦隊を送り、海軍を立て直した。戦争は1604年まで続く。イングランドがすぐに海の覇者になったわけでもない。それでも、侵攻を退けたことは、プロテスタントの小国が大国の攻撃に耐えたという自信をイングランドにもたらした。その少し前に試みられた北アメリカの植民(ロアノークの失われた植民地)は失敗に終わっていたが、17世紀に入ると、イングランドは東インド会社を作り、北アメリカに植民地を築いて、海の向こうへ出ていく。