ヌール・ジャハーン
概要
皇妃でありながら自分の名で貨幣を発行し、勅令を出した。実質的にムガルを動かした時期がある。
所属
ムガル帝国関わったできごと(1)
タージ・マハルの完成AD1653年 · その前の時代に宮廷を動かした本文
1577年5月31日、アフガニスタン南部のカンダハールで生まれた。名はメヘルンニサー。父のミールザー・ギヤース・ベグはペルシアの名家の出だったが、家が傾き、職を求めて一家でインドへ向かう旅の途中だった。生まれたばかりの娘を貧しさのあまり木の下に置いて行こうとした、という話が伝わるが、後の物語とみられる。インドに着いた父は、アクバルの宮廷に仕えて出世していった。

17歳ごろ、ペルシア人の武将アリー・クリーと結婚した。夫は虎を素手で倒したという武勇から「シェール・アフガン(虎を倒す者)」の称号を受けていた。夫婦はベンガルの任地で暮らし、娘が一人生まれた。1607年、夫は地方の長官と争って殺された。メヘルンニサーは都へ呼ばれ、先帝アクバルの妃の一人に侍女として仕えることになった。
1611年、34歳で皇帝ジャハーンギールの妃になった。皇帝が宮中の市で彼女を見初めた、と後の史書は語る。当時の基準ではかなり遅い結婚で、すでに子を持つ寡婦だったが、皇帝の寵愛は深かった。最初はヌール・マハル(宮殿の光)、のちにヌール・ジャハーン(世界の光)の称号を与えられた。

結婚は、一族の出世でもあった。父はイティマード・ウッダウラ(国家の柱)の称号を受けて宰相となり、兄のアーサフ・ハーンも重く用いられた。兄の娘アルジュマンド・バーヌーは、皇子フッラム、のちのシャー・ジャハーンに嫁いだ。のちにタージ・マハルに葬られるムムターズ・マハルが、この姪である。ヌール・ジャハーン、父、兄、皇子フッラムの四人が、宮廷の実権を握る一団になった。
皇帝ジャハーンギールは、自ら書いた回想録の中で、酒と阿片を手放せなくなったことを率直に書いている。体が弱るにつれ、妃が政務を担うようになる。自分の名を刻んだ貨幣を発行し、勅令に署名した。ムガル帝国で、皇妃がここまでやった例は他にない。宮殿の窓から姿を見せる謁見の場にも、皇帝と並んで出たとされる。1615年から宮廷を訪れたイギリスの使節トマス・ローは、皇帝を動かすには妃を通さねばならないと書き残している。

狩りに出て虎を仕留めた記録がある。ある狩りで、象の背の輿から鉄砲を6発撃ち、4頭の虎を倒した、と皇帝は回想録に誇らしげに書いた。皇帝はその褒美に、妃に宝石を贈っている。貧しい女性たちの結婚の持参金を出し、藍や織物の商いにも関わった。
建築と庭園の趣味も残した。父の墓(イティマード・ウッダウラ廟)は、アグラのヤムナー川のほとりに建てられた。それまでのムガルの墓廟が赤い砂岩を主に使っていたのに対し、白大理石の壁に、色とりどりの石を嵌め込んだ花や器の模様が一面に施された。タージ・マハルの先駆とされる(タージ・マハルの完成)。衣服の型や織物、宝飾の意匠にも、彼女の好みが流行を生んだと伝えられる。

権力の一団は、やがて割れた。ヌール・ジャハーンは、最初の夫との娘を皇帝の末の皇子シャフリヤールに嫁がせ、後継に推した。有力な皇子フッラムはこれに反発して1622年に反乱を起こし、数年にわたって父と争った。1626年には、将軍マハーバト・ハーンが反乱を起こし、川辺の陣で皇帝を捕らえた。ヌール・ジャハーンは象に乗って兵を率い、川を渡って奪い返そうとしたが果たせなかった。その後、自ら捕らわれの身となって皇帝のそばに付き、機を見て皇帝を救い出したとされる。
1627年、ジャハーンギールが死ぬと、兄のアーサフ・ハーンは娘婿のフッラムの側に立った。シャフリヤールは捕らえられて目をつぶされ、殺された。フッラムはシャー・ジャハーンとして即位する(ムガル帝国)。継承争いに敗れたヌール・ジャハーンは、宮廷を退いてラホールで暮らした。年金を受け、夫の墓を建てることに心を注いだ。

1645年12月17日、68歳で死んだ。ラホールの郊外、ラーヴィー川の対岸に眠るジャハーンギールの廟の近くに、自分で用意した墓に葬られた。墓碑には、旅人よ、この貧しい者の墓に灯りも花も要らない、という意味の詩が刻まれていると伝えられる。
16年にわたって、皇帝の陰ではなく隣に立った女性だった。ムガル帝国の歴史の中で、ペルシアの文化と女性の才覚が宮廷をどれほど動かしたかを、彼女の生涯はよく示している。