テオドラ
概要
芸人の娘から皇后になった。ニカの乱で逃げようとした夫を思いとどまらせたと伝わる。
所属
東ローマ帝国関わったできごと(2)
ニカの乱AD532年1月13日 · 皇后ユスティニアヌスの再征服533年 · 支えた本文
テオドラは500年ごろに生まれた。生まれた土地はキプロスともシリアともいわれ、はっきりしない。前半生のことは、ほとんどがプロコピオスの『秘史』(プロコピオス『秘史』)に頼っている。悪意に満ちた書物なので、話は割り引いて読む必要がある。

それによれば、父のアカキオスはコンスタンティノープルの競技場で、緑党に雇われた熊の飼育係だった。競技場の戦車競走を応援する党派は、青党と緑党に分かれ、町の政治をも左右していた。父が早く死ぬと、母は再婚相手に仕事を継がせてもらおうと、幼い娘3人に花冠を持たせて競技場で緑党に頼んだ。緑党は断り、青党がそれを引き受けた。テオドラが終生、青党の味方だったのは、このときの恩からだと『秘史』は書く。
少女のころから舞台に立ち、黙劇や見世物の女優になった。当時、女優は娼婦と同じに見られる最下層の職業で、法律上も多くの制約を受けた。やがて北アフリカの属州の長官の愛人となって任地に従ったが、捨てられ、アレクサンドリアを経て都へ戻った。アレクサンドリアでは、キリストの本性を一つとみる単性論の聖職者たちと知り合ったとされ、テオドラは生涯その立場を支持し続ける。
522年ごろ、皇帝ユスティヌス1世の甥で、事実上の後継者だったユスティニアヌス1世と出会った。ユスティニアヌスは身分違いの結婚を禁じる法律のほうを改めさせ、525年ごろに結婚した。527年、夫が即位すると、テオドラも皇后として共に冠をいただいた。夫はその後の法律の中で、妻を「神から与えられた最も尊い伴侶」と呼び、政策を「妻と相談して」定めたと書いている。
532年1月、競技場から始まったニカの乱で、青党と緑党が手を結び、宮殿を囲んだ。町は燃え、群衆は別の皇帝を担ぎ出した。ユスティニアヌスと重臣たちは、船で都を逃れる相談をした。そのときテオドラが口を開いた、とプロコピオスは『戦史』に書く。逃げるのはたやすい、船も海もある、しかし生き延びた者がその後どう生きるのか。帝衣は最もよい死装束だという古い言葉を、私は好む、と。この演説が本当にそのとおり語られたのかは分からないが、皇帝は残った。将軍ベリサリウスらが競技場に集まった群衆を襲い、数万人が殺されたと伝えられる。政権は保たれ、焼けた教会の跡には新しいハギア・ソフィアが建てられた(ハギア・ソフィアの完成)。
テオドラは政治にもかかわった。法制の面では、女性の財産権を広げ、離婚の条件を緩め、少女を買って売春させる業者を罰する法を出させた。都の対岸に修道院を設け、娼婦だった女性たちを住まわせたとも伝わる。自分が出てきた場所を、忘れていなかったと読める。一方で、敵には容赦がなかった。権勢をふるった財務長官カッパドキアのヨハネスは、テオドラとベリサリウスの妻アントニナの謀りごとで失脚させられた。
宗教では、夫と立場が違った。ユスティニアヌスは単性論を退ける正統派の側に立ったが、テオドラは迫害された単性論派の聖職者を宮殿にかくまった。ナイル川上流のヌビアへ布教団を送るときには、夫の送る正統派の使節より先に、自分の推す単性論派の使節を着かせたという話も残る。夫婦がわざと役割を分け、帝国の東西の信徒をつなぎとめていたのだと見る研究者もいる。542年、都を襲った疫病(ユスティニアヌスの疫病)で夫が重い病に倒れたときには、その不在のあいだ政務を見たとされる。

548年6月、テオドラは死んだ。病はがんだったと伝える史料がある。50歳前後だった。死の前年に完成したラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂には、宝石の冠をいただき、侍女たちを従えて捧げ物を運ぶテオドラのモザイク画が、夫の像と向き合って残っている。ユスティニアヌスはその後17年を生き、再婚しなかった。
プロコピオスは公式の『戦史』や『建築について』で皇帝夫妻をたたえながら、ひそかに『秘史』を書いて彼女を口汚く罵った。勇気ある皇后と、成り上がりの悪女。評価の材料が、同じ人物の二つの筆にある。東方の正教会では、テオドラは夫とともに聖人とされている。