推古天皇の即位
概要
記録に残る日本最初の女性の天皇。以後、江戸時代までに8人10代の女性天皇が立つ。
場所
34.47°N 135.81°E · 日本・奈良県明日香村(推古天皇の宮)
関わった人(1)
推古天皇AD554年–AD628年 · 当人本文
6世紀の後半、ヤマトの王権では、大王の位をめぐる争いと、豪族どうしの争いが絡み合っていた。とりわけ力を持ったのが蘇我氏である。蘇我稲目は娘たちを欽明大王の妃に入れ(蘇我稲目)、その子らが次々に王位に就いた。稲目の娘、堅塩媛が生んだ皇女の一人が、額田部皇女、のちの推古天皇である。554年の生まれとされる。
額田部皇女は18歳で異母兄の敏達大王の妃となり、のちに皇后に立てられた。皇后として宮廷の儀礼や祭祀に携わり、王族の中で重い立場を築いていった。585年に敏達が死ぬと、同母兄の用明が位を継いだが、2年で病に倒れた。587年、仏教の受け入れや王位の継承をめぐって、蘇我馬子と物部守屋が戦い、物部氏は滅んだ(蘇我氏と物部氏の戦い)。馬子は額田部皇女と諮って、異母弟の崇峻を王位に就けた。

だが崇峻は馬子と対立した。『日本書紀』によれば、献上された猪を見て、いつかこの猪の首を斬るように、憎い者を斬りたいものだ、と言ったという。これを伝え聞いた馬子は、592年11月、配下の東漢駒に崇峻を殺させた。臣下が大王を殺すという、記録に残る限り例のない事件だった。
次の王を誰にするか。敏達の子の押坂彦人大兄皇子、額田部皇女自身の子の竹田皇子、用明の子の厩戸皇子など、候補はいたが、いずれも決め手を欠いたか、まだ若かった。群臣が推したのは、39歳の額田部皇女だった。592年12月、皇女は飛鳥の豊浦宮で即位した。推古天皇である。記録の上で確かめられる、日本で最初の女性の君主になる。もっとも、当時はまだ「天皇」という称号は使われておらず、大王と呼ばれていた。天皇の号がいつから使われたかは、推古の時代とする説と、70年ほど後の天武天皇の時代とする説がある。
翌593年、推古は甥の厩戸皇子を皇太子に立て、政治を任せた。のちに聖徳太子と呼ばれる人である(聖徳太子)。推古の治世は36年に及び、その間に、冠位十二階(冠位十二階)、憲法十七条(憲法十七条)、隋への使者の派遣(遣隋使)、そして仏教の興隆が行われた。家柄ではなく人に位を与える制度、豪族に役人としての心得を説く文、中国の大帝国と向き合う外交。ヤマトの王権が、豪族の連合から国家へ変わろうとする時代だった。589年に中国を統一した隋(隋の中国再統一)は、東アジアの国々に強い圧力となっていた。

これらの政治をだれが主導したのかは、はっきりしない。『日本書紀』は、厩戸皇子と大臣の蘇我馬子が共に政治を執ったと書く。推古自身の言葉や判断はあまり記されていない。そのため、推古は蘇我氏と聖徳太子の間に立てられた飾りの君主だったと見られてきた。一方、聖徳太子の事績には後の時代に美化され、書き加えられた部分が多いとする研究も出ており、その分だけ推古と馬子の役割を大きく見る見方もある。
推古自身の意思がうかがえる話が一つ、『日本書紀』に残っている。624年、すでに老いた馬子が、葛城の地はもともと蘇我氏の出身地だから、これを自分の領地にしたいと願い出た。推古はこれを断った。私は蘇我氏の出であり、大臣はわが叔父である。だから大臣の言うことは何でも聞いてきた。だが今、私の代にこの地を失えば、後の世の君主は私を愚かな女だと言うだろうし、大臣も不忠の名を残すことになる、と。叔父であり最大の後ろ盾である馬子に対しても、王権の土地は譲らなかったのである。

厩戸皇子は622年に、馬子は626年に世を去った。628年、推古は75歳で死んだ。死の床で、後継の候補だった田村皇子と山背大兄王をそれぞれ呼び、言葉を残したが、どちらを次の王とするかは明言しなかった。このため群臣の意見は割れ、田村皇子が舒明天皇として即位するまでに争いが起きた。推古はまた、このごろ五穀が実らず民が飢えている、私のために大きな陵を造ってはならない、先に亡くした子の竹田皇子の墓に葬ってほしい、と遺言したと伝えられる。
推古のあと、日本では奈良時代までに、皇極(重祚して斉明)、持統天皇、元明、元正、孝謙(重祚して称徳、孝謙天皇(称徳天皇))の女性天皇が続いた。江戸時代には明正天皇と後桜町天皇が立った。あわせて8人、10代である。女性天皇の多くは、皇位を継ぐべき男子が幼いときや、継承が争われるときに立ったため、次の男性天皇までの中継ぎだったと説明されることが多い。これに対し、推古や持統は自ら政治を動かした君主であり、中継ぎという見方は後の時代の男系の考え方を当てはめたものだ、と論じる研究者もいる。

明治の皇室典範、そして戦後の現行の皇室典範は、皇位を男系の男子に限っている。皇位の継承をめぐる議論の中で、推古以来の女性天皇の前例は、繰り返し引き合いに出されてきた。推古の即位は、そうした議論の出発点にある出来事でもある。