マリア・テレジアの統治
概要
女性の相続を認めないと戦争を仕掛けられ、それを凌いだ。義務教育を導入し、帝国の仕組みを作り替える。
場所
48.21°N 16.37°E · オーストリア
関わった人(1)
マリア・テレジアAD1717年5月13日–AD1780年11月29日 · 当人本文
ハプスブルク家の当主は、オーストリア、ボヘミア、ハンガリーなど多くの国の君主を兼ね、代々神聖ローマ皇帝にも選ばれてきた。18世紀の初め、その家に男の跡継ぎがいなくなる恐れが出た。皇帝カール6世には娘しか育たなかったからだ。
カール6世は1713年に「国事詔書」を定め、ハプスブルク家の領地は分けずに受け継ぎ、男子がいなければ娘が継ぐ、とした。そして20年以上かけて、ヨーロッパの諸国とハプスブルク領内の議会にこれを認めさせていった。その代わりに、領土や権益を譲ることもあった。

1740年10月、カール6世が亡くなり、23歳の長女マリア・テレジアが後を継いだ。政治の手ほどきは、ほとんど受けていなかった。国庫は空で、軍は弱っていた。
約束は守られなかった。父の死からわずか2か月後、プロイセンの若い王フリードリヒ2世(大王)が、豊かなシュレージエンに軍を進めた。バイエルンは自分こそ継承者だと主張し、フランスとスペインもそれに乗った。オーストリア継承戦争が始まる。1742年には、バイエルンの選帝侯が皇帝に選ばれ、ハプスブルク家は300年ぶりに帝位を失った。

窮地のマリア・テレジアは、ハンガリーに助けを求めた。1741年、プレスブルク(いまのブラチスラヴァ)の議会で、彼女はハンガリーの貴族たちに支援を訴えた。貴族たちは「我らの命と血を女王に」と叫んで兵を出すことを誓った、と伝えられる。その場に乳飲み子の王子を抱いて現れたという話は、後に脚色されたものとも言われるが、ハンガリーの支持で彼女が持ちこたえたのは確かだった。
1748年の講和で、マリア・テレジアは領地の大半と相続の権利を守り、夫のフランツ・シュテファンも1745年に皇帝に選ばれていた。だが、シュレージエンは取り返せなかった。

この戦争で、彼女は自分の国の弱さを思い知った。各地の貴族の議会が税と兵を握り、君主は彼らに頼まなければ軍を養えない。プロイセンは、小さな国でも中央に集めた官僚と常備軍で大国と戦っていた。
そこから、国家の作り替えが始まる。顧問のハウクヴィッツのもとで、ボヘミアとオーストリアの行政を中央の役所に集め、貴族と教会の土地にも税を課した。そのお金で常備軍を整え、将校を育てる士官学校を開いた。外交では宰相カウニッツの進言で、何百年も敵だったフランスと手を結んだ。プロイセンを囲むためだった。1756年に始まった七年戦争では、ロシアとフランスと組んでフリードリヒを追い詰めたが、シュレージエンはついに戻らなかった。

改革は、民の暮らしにも及んだ。1774年には一般学校令を出し、6歳から12歳までの子どもに学校へ通うことを求めた。教員を育てる学校を作り、教科書をそろえた。プロイセンの義務教育からわずかに遅れた、ヨーロッパでも早い試みになる。農民が領主のために働く賦役の日数に上限を設け、拷問を廃止した。家々に番号を振り、人口を数えた。兵を集め、税を取るためでもあったが、国が一人一人の民を直接つかもうとする、近代の国家の始まりだった。
私生活では、夫と仲睦まじく、16人の子を産んだ。1767年には自身も天然痘にかかって生き延び、その後、子どもたちに人痘の接種を受けさせて、宮廷から予防の習慣を広めた。娘たちはヨーロッパの王家に嫁がされ、末娘は、のちにフランス王妃となるマリー・アントワネットになる。1762年には、6歳のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがシェーンブルン宮殿で彼女の前で演奏している。

1765年に夫が亡くなると、彼女は死ぬまで喪服で過ごした。帝位は長男のヨーゼフ2世が継ぎ、母と共同で領地を治めた。急な改革を求める息子と、慎重な母はしばしば衝突した。1772年のポーランド分割では、ポーランドを分け取ることに反対しながらも、結局は加わった。フリードリヒは、彼女は泣きながらも取る、と皮肉ったと伝えられる。
彼女は「女帝」と呼ばれることが多いが、正式には皇帝の妃だった。神聖ローマ皇帝の位は男性しか就けず、彼女はオーストリア大公、ハンガリー女王、ボヘミア女王として領地を治めた。実権を持ちながら、皇帝の称号は夫のものだった。1780年に亡くなったとき、ハプスブルク家の領地は、戦争で奪われかけた国から、中央の役所と常備軍と学校を持つ国に変わっていた。