人物

善徳女王

Seondeok
? – AD647年
新羅重要度 4

概要

徳曼。唐から来た牡丹の絵に蝶がいないのを見て「香りがない」と言い、玉門池で蛙が鳴くのを聞いて百済の伏兵を知った。「三つのことを知っていた」。瞻星台。芬皇寺。反乱した毗曇が「女主は国を治められない」と言った。その最中に死んだ。

所属

新羅

関わったできごと(1)

善徳女王の即位AD632年 · 女王

本文

名は徳曼。朝鮮半島の南東にあった新羅の第26代、真平王の長女として生まれた(新羅)。生まれた年は分からない。母は摩耶夫人と伝えられる。釈迦の母と同じ名で、真平王は自分の名も釈迦の父の名にちなんで白浄と称していた。仏教を国の柱に据えた新羅の王家は、自分たちを釈迦の一族になぞらえていたのである。

慶州の天文台、瞻星台
慶州の天文台、瞻星台Wikimedia Commons Matt and Nayoung Wilson from Atlanta and surrounding, US · CC BY 2.0

新羅には、骨品制という厳しい身分の制度があった(新羅の骨品制)。王族の中でも、父母ともに王族の血を引く者を「聖骨」と呼び、王になれるのは聖骨の者に限られていた。真平王は50年あまり国を治めたが、息子に恵まれなかった。聖骨の男子は絶えていた。そこで632年、王が死ぬと、長女の徳曼が王位についた。朝鮮半島で初めての女王である(善徳女王の即位)。死後、善く徳がある、という意味の善徳の名で呼ばれた。

即位のいきさつから、彼女には賢さを伝える逸話が多い。13世紀の高麗で僧一然がまとめた『三国遺事』は、彼女が前もって知っていた三つのこととして、こんな話を伝えている。

僧・慈蔵
僧・慈蔵Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

一つ目。唐の太宗が、赤・紫・白の三色の牡丹を描いた絵と、その種を贈ってきた。徳曼は絵を見て、この花には香りがない、と言った。種をまいて咲かせてみると、本当に香りがなかった。なぜ分かったのかと問われ、彼女は答えた。花の絵に蝶が描かれていない、だから香りがないと分かった、と。唐の皇帝が、夫のいない自分をからかったのだ、とも語ったという。この話は、12世紀の正史『三国史記』にも、即位前の逸話として載っている。

二つ目。冬のさなか、都の宮殿の西にある玉門池で、蛙が大勢集まって三、四日鳴き続けた。女王はすぐに兵を出し、都の西の女根谷という谷を探させた。そこには百済の兵500人が潜んでいて、すべて討ち取られた。蛙の怒った姿は兵の姿、玉門は女性を表し、女性は陰で、その色は白、白は西を意味する。だから西の谷に兵がいると分かった、と女王は説明した。

三つ目。まだ元気なうちに、女王は臣下たちに言った。私はある年のある日に死ぬ。そのときは忉利天に葬ってほしい。忉利天とは、仏教で須弥山の頂にあるとされる天上の世界である。臣下が場所を尋ねると、都の東の狼山の南だと答えた。女王はその日に本当に死に、狼山の南に葬られた。それから30年あまり後、のちの文武王が、その陵の下に四天王寺を建てた。仏教の世界では、四天王の住む天の上に忉利天がある。人々は、女王の言葉の意味がここで分かった、と感嘆したという。ただし三つの話はいずれも伝承として読むべきものである。

治世は、戦いの連続だった。西の百済、北の高句麗が、新羅を両側から圧迫していた(百済)。642年、百済の義慈王が自ら軍を率いて攻め込み、新羅の西の40あまりの城を奪った。同じ年、百済の将軍が西部の要地、大耶城を落とした。城主の金品釈は、王族の金春秋の娘婿だった。品釈は妻の古陀炤とともに殺された。

娘を失った金春秋は、敵の高句麗に救援を求めに行き、捕らえられそうになって逃げ帰った。そこで新羅は唐に頼る道を選ぶ。643年、新羅の使者が唐の都で救援を求めると、太宗は三つの策を示した。その一つが、あなたの国は女を王にしているので、隣国に侮られる。私の一族の者を送って王にしてやろう、というものだった(唐の太宗)。新羅にとって受け入れられる話ではなかった。

女王は仏教の力にも頼った。都に芬皇寺や霊廟寺を建て、唐で学んで帰国した僧の慈蔵を重んじた。慈蔵の勧めで、645年、皇龍寺に高さ80メートルにも達したとされる九層の木造の塔を建てた。百済から名工の阿非知を招いて作らせたと伝えられる。九つの層は、周りの九つの国や民族を服属させる願いを表していた、と『三国遺事』は書く。塔は600年近く都に立ち続け、13世紀にモンゴル軍の侵入で焼け落ちた。

女王の時代に建てられたとされるのが、都の慶州に今も残る瞻星台である。石を積み上げた、とっくりのような形の塔で、東アジアに残る最も古い天文台だと言われてきた。ただ、本当に星を観測する施設だったのか、祭祀のための象徴的な建物だったのかは、研究者の間でも意見が分かれている。積まれた石の数や段の数が一年の日数などと符合する、という話もよく語られるが、数え方によって変わり、確かなことは言えない。

政治の実務では、金春秋と、武勇に優れた金庾信の二人が女王を支えた(金庾信)。この二人がのちに、新羅による半島の統一の中心となる。

647年1月、重臣の毗曇が反乱を起こした。女王は国をよく治められない、という言葉を掲げていた。反乱軍は都の東の明活城に陣取り、女王の軍と10日ほどにらみ合った。ある夜、大きな星が女王の陣のほうへ落ちた。毗曇は、女王が敗れるしるしだと言いふらし、兵たちは動揺した。『三国史記』によれば、金庾信は人形を大きな凧に結びつけて火を付け、夜空に上げて、落ちた星がまた天に昇ったと言いふらして兵を落ち着かせた。

その反乱のさなかの1月8日、女王は死んだ。反乱は、後を継いだいとこの真徳女王のもとで、金庾信らによって鎮められた。真徳女王もまた聖骨最後の王で、その後は金春秋が即位して武烈王となる。彼の時代に新羅は唐と結んで百済を滅ぼし(百済の滅亡)、やがて半島を統一した(新羅の朝鮮半島統一)。

後の時代の儒学者たちは、女性が王になったことを、国の乱れのもととして批判的に書いた。朝鮮半島の歴史で女王は3人しかおらず、善徳、真徳、そして新羅が崩れていく9世紀末の真聖女王である。いま善徳女王は、知恵で国難に立ち向かった女王として、韓国の人々に親しまれている。2009年には彼女を主人公にしたテレビドラマが大きな人気を集めた。

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