トライアングル・シャツウエスト工場の火災
概要
ビルの八階から十階の縫製工場で火が出た。働いていたのは大半が十代から二十代の移民の女性である。九階の出口の扉は、盗みを防ぐという理由で施錠されていた。非常階段は途中で崩れ落ちた。消防のはしごは六階までしか届かない。窓から飛び降りた者が多数いた。146人が死んだ。経営者二人は無罪になった。この火災が、労働安全の法規と、防火の規制と、そして労働組合を、決定的に押し進めた。
場所
40.71°N -74.01°E · アメリカ合衆国
関わった人(1)
フランシス・パーキンズAD1880年4月10日–AD1965年5月14日 · 通りで見ていた本文
ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジ、ワシントン広場の東に、十階建てのアッシュ・ビルが建っていた。1901年に完成し、燃えにくい建物として造られた。実際、この建物はいまも残っている。1911年に燃えたのは、建物ではなく、その中身と、そこにいた人々だった。
ビルの8階から10階を借りていたのが、トライアングル・シャツウエスト社である。シャツウエストとは、当時大流行していた女性用のブラウスのことで、ミシンを並べた工場で大量に縫われ、既製服として売られていた(ミシンと分割払い)。工場ではおよそ500人が働き、その大半は十代から二十代の、イタリアや東ヨーロッパから来たユダヤ系の移民の女性たちだった。犠牲者の中で最も若かったのは14歳の少女たちである。週に6日、一日に9時間から12時間ほど働き、賃金は週に数ドルから十数ドルだった。

火災の2年前の1909年、ニューヨークの衣料産業では「二万人の蜂起」と呼ばれる大規模なストライキが起きていた。中心になったのは、若い移民の女性たちだった。トライアングル社の労働者も加わったが、経営者は労働組合を認めず、用心棒を雇い、警察の力も借りてストライキを抑え込んだ。ほかの多くの工場が待遇を改めたのに、この会社は変わらなかった。ストライキの要求の中には、職場の安全、とくに出口の確保も含まれていた。
1911年3月25日、土曜日の午後4時40分ごろ。仕事の終わりの時刻が近づいていた。8階の裁断台の下にあった屑入れから、火が出た。工場の中は禁煙だったが、煙草の火が原因と推定されている。そこには何か月分もの綿の裁ち屑がたまり、周りには薄い綿の布がたくさん吊るされていた。火はあっという間に燃え広がり、数分でフロア全体を包んだ。

8階からは、電話で上の階に急を知らせた。経営者の事務所がある10階には連絡が届き、そこにいた人々の多くは屋上へ逃れて、隣の建物に助け出された。だが9階には、知らせが届かなかった。9階で働いていた人々が火事に気づいたのは、煙と炎が上がってきたときだった。
9階には二つの出口があったが、一方の階段へ出る扉には鍵がかけられていた。退勤のときに労働者の持ち物を調べて盗みを防ぐため、出口を一つに絞っていたのだと説明された。開いているほうの出口と階段には人が殺到し、やがてそこにも火が回った。建物の外側にあった鉄の非常階段は細くて急なうえ、地上まで届いていなかった。逃げ込んだ人々の重さと熱で、非常階段はねじ曲がって崩れ落ち、その上にいた人々は地面に叩きつけられた。

二人のエレベーターの運転手は、炎の中を何度も往復して、多くの人を下へ運んだ。しかし熱でレールがゆがみ、やがてエレベーターは動かなくなった。逃げ場を失った人々の中には、エレベーターの通る縦の穴に飛び込んだ者もいた。
消防車は駆けつけたが、当時の消防のはしごは6階ほどまでしか届かなかった。火は8階から上で燃えていた。消防士たちは地上で救助の網を広げたが、高い階から落ちてくる人の勢いには耐えられず、網は破れ、支えていた消防士も投げ出された。

窓から、人々が飛び降り始めた。下の通りには大勢の人が集まり、それを見上げていた。現場にいた新聞記者は、62人が落ちていくのを数えたと書いた。二人、三人と手を取り合って一緒に飛んだ者もいたと、何人もの人が証言している。
火は30分足らずで消し止められたが、146人が死んだ。123人が女性、23人が男性だった。多くは十代や二十代の若者で、火に焼かれた者、煙に巻かれた者、そして飛び降りた者がいた。6人の遺体は身元が分からないまま葬られたが、火災から百年の2011年、一人の研究者の調べによって、全員の名前が明らかになった。

工場の経営者マックス・ブランクとアイザック・ハリスは、過失致死の罪で裁判にかけられた。争点は、二人が扉に鍵がかかっていることを知っていたかどうかだった。弁護に立ったのは当代きっての刑事弁護士で、生き残った労働者の証言は、言わされて覚え込んだものだと印象づけて崩していった。1911年12月、陪審は二人を無罪とした。
民事の裁判は1914年に和解となり、遺族に支払われたのは、亡くなった人一人あたり75ドルほどだった。一方で経営者たちは、火災の損害に対する保険金として、実際の損害を上回る額を受け取っていたと計算されている。1913年には、ブランクが別の工場で再び出口に鍵をかけていたことが見つかり、20ドルの罰金を科された。

それでも、この火災は社会を変えた。1911年、ニューヨーク州は工場調査委員会を設けた。委員会は数年にわたって何千もの職場を実際に調べて回り、数十の法律が作られた。消火の設備、非常口、扉を外開きにすること、換気、子どもの労働、女性の労働時間。
ニューヨーク州の労働法は、当時のアメリカで最も進んだものになった。この委員会の中心にいたのが、のちにニューヨーク州知事となり大統領選挙にも出るアル・スミスと、のちに上院議員となって労働者が団結して交渉する権利を保障する法律を作るロバート・ワグナーである。二人は、この調査を通じて労働問題に深く通じるようになった。
火災の日、近くの家でお茶を飲んでいた一人の女性が、騒ぎを聞いて通りに飛び出し、すべてを目にした。社会運動家のフランシス・パーキンズである。彼女は工場調査委員会の調査にも加わり、1933年、フランクリン・ローズヴェルト政権の労働長官に就いた。アメリカで初めての女性の閣僚である。彼女は、社会保障の制度、最低賃金、週40時間の労働、子どもの労働の禁止を、次々に形にしていった。後年、彼女は、あの火災の日にこそニューディールは始まったのだと語っている。

火災は、労働組合も大きく育てた。婦人服の労働者の組合は、この事件をきっかけに急速に組合員を増やした。犠牲者を悼む葬列には、雨の中、十万人を超える人々が加わり、沿道で数十万人が見送ったと伝えられる。
アッシュ・ビルは、いまはニューヨーク大学の校舎として使われ、国の歴史的建造物に指定されている。2023年には、建物の角に記念の碑が除幕され、146人の名前が刻まれた。

だが、同じことはいまも起きている。2012年、バングラデシュの衣料工場タズリーン・ファッションズで火災が起き、112人が死んだ。ここでも出口は閉ざされていた。翌2013年には、同じバングラデシュで、多くの縫製工場が入った八階建てのビル、ラナ・プラザが崩れ落ち、1100人を超える人々が命を落とした(縫製工場の崩落)。そこで縫われていた服の多くは、欧米の有名な衣料ブランドに納められるものだった。百年前のニューヨークの若い移民の女性たちと同じように、遠い国の若い女性たちが、いまも私たちの服を縫っている。