グリーンベルト運動
概要
木を植える運動が、環境と女性の自立と民主化を同時に扱うものになった。
場所
-1.29°N 36.82°E · ケニア
関わった人(1)
ワンガリ・マータイAD1940年4月1日–AD2011年9月25日 · 当人本文
薪が採れない。水が濁る。土が流れる。畑の作物の育ちが悪く、子どもに食べさせる物が足りない。1970年代のケニアの農村で、女性たちが訴えていたのは、日々の困りごとだった。
その根には、土地の使い方の変化があった。植民地の時代から、高地の森は切り開かれ、輸出向けのコーヒーや茶の畑、外来の木の植林地に変えられていった。ケニアの独立のあとも、その流れは止まらなかった。森が減れば、水源が涸れ、斜面の土が雨で流される。薪を集める距離が伸び、そのぶん女性の一日が削られる。

ワンガリ・マータイは、ナイロビ大学で教えていた生物学者だった。東アフリカの女性として初めて博士号を取った人で、全国女性評議会の活動に加わっていた。農村の女性たちの訴えを聞いて、彼女が出した答えは単純だった。木を植えればいい。
1977年6月5日、世界環境デーに、ナイロビの公園に7本の木を植えたのが始まりとされる。これが全国女性評議会の事業として広がり、のちにグリーンベルト運動と呼ばれるようになる。

仕組みも単純だった。女性たちが村で苗床を作り、在来の木の苗を育てる。植えた苗が根づくと、1本ごとにわずかな手当が出る。森林の専門家がいなくても、農村の女性は自分で種を集め、苗を育てられる。土を守ることが、そのまま女性が自分で現金を得る手段になった。苗床の運営を通じて、帳簿をつけ、集まりを開き、自分たちで物事を決める経験も積まれていった。
運動はやがて、木の植え方を教えるだけのものではなくなった。集まりでは、なぜ森が消え、なぜ自分たちの暮らしが苦しいのかを話し合う学びの場が開かれた。土地を誰が持ち、作物の値段を誰が決め、役人が何をしているのか。困りごとの原因を遠い誰かのせいにして諦めるのではなく、自分の手で変えられることから変える。木を植えることは、その最初の経験になった。

植えた木は、のちに5000万本を超えたとされる。
運動は、やがて政府とぶつかる。1989年、与党が首都の中心にあるウフル公園に、60階建ての高層ビルを建てる計画を打ち出した。市民が憩う数少ない緑地を潰す計画に、マータイは公然と反対した。議会で嘲られ、運動の事務所は追い出された。それでも国外の出資者が手を引き、計画は取りやめになった。
当時のケニアは、モイ大統領のもとで事実上の一党体制だった。土地の使い方を問うことは、誰がその土地を配分し、誰が利益を得ているかを問うことになる。公有の森や公園の土地が、政権に近い者に払い下げられていたからだ。運動は複数政党制を求める民主化運動と重なり、マータイは何度も逮捕され、警官に殴られて意識を失ったこともある。1992年には、政治犯の釈放を求める母親たちとともに公園でハンガーストライキを行い、強制的に排除された。1999年には、ナイロビ近郊のカルラの森の払い下げに抗議して、植樹に向かったところを襲われ、頭にけがを負っている。
2002年、選挙で政権が代わり、マータイは国会議員に当選して環境省の副大臣になった。2004年、アフリカの女性として初めてノーベル平和賞を受けた(ノーベル賞の始まり)。環境の活動に平和賞が与えられたことには異論もあったが、選考側は、持続可能な開発と民主主義と平和は切り離せない、と説明している。
環境と、女性の自立と、民主化。別々の問題として扱われていたものが、一本につながっていることを、木を植えるという誰にでもできる行為から示した運動だった。1980年代には、同じやり方がアフリカのほかの国々にも伝えられた。2006年には、国連環境計画がマータイの呼びかけに応えて、世界で10億本の木を植える運動を始めている。
マータイは2011年に亡くなったが、運動はいまも続き、ケニアの外にも同じ形の植樹の取り組みが広がっている。