マーガレット・サッチャー
概要
イギリス初の女性首相。国営企業を売り、労組と対決した。評価は本人の死後もまっぷたつに割れている。
関わったできごと(1)
フォークランド紛争AD1982年4月2日 · 首相本文
マーガレット・サッチャー、旧姓ロバーツは、1925年10月、イングランド中部の町グランサムに生まれた。父は食料品店を営み、一家は店の二階に住んだ。父はメソジストの説教師でもあり、町の議員を務め、のちに市長にもなった。勤勉に働き、借金をせず、自分の足で立つ。家計をやりくりする店の主人の倹約の教えを、彼女はのちに国の財政を語るときにも繰り返し持ち出した。

奨学金を得てオックスフォード大学に進み、化学を学んだ。のちにノーベル賞を受けるドロシー・ホジキンのもとで、結晶の構造を調べる研究にも関わっている。在学中に保守党の学生組織の長となり、政治の道を志した。卒業後は化学者として企業で働き、食品会社ではアイスクリームなどの研究に関わったと伝えられる。1951年、裕福な実業家デニス・サッチャーと結婚し、その支えで法律を学んで、税法を扱う法廷弁護士の資格を得た。1953年には双子の母になった。
1959年、ロンドン北部の選挙区から下院議員に当選した。1970年、ヒース内閣で教育相として入閣すると、予算削減のために小学生への牛乳の無料配給を一部取りやめ、「ミルク泥棒」と激しく非難された。

1970年代のイギリスは、英国病と呼ばれる停滞の中にあった。70年代の半ばには物価が年に20パーセントを超えて上がり、大きな産業は国が持つ赤字の企業で占められ、労働組合のストライキが繰り返された。1978年から79年の冬には公共部門のストが広がり、ごみが街に積まれ、死者の埋葬さえ滞った。1975年に保守党の党首となっていたサッチャーは、1979年5月の総選挙に勝ち、イギリスで初めての女性の首相となった。
サッチャーの政府は、物価を抑えるためにお金の量を絞り、所得税を下げ、政府の支出を削った。工場の閉鎖が相次ぎ、失業者は300万人を超えた。党の内部からも方針を変えるよう求める声が上がったが、彼女は1980年の党大会で、Uターンしたい人はどうぞ、この女は向きを変えません、と言い放った。

1982年4月、アルゼンチンの軍事政権が、南大西洋のイギリス領フォークランド諸島を占領した。サッチャーは機動部隊を1万キロ以上離れた島へ送り、6月に島を取り戻した(フォークランド紛争)。不人気だった政権はこの勝利で支持を回復し、翌年の総選挙で大勝した。
二期目の最大の対決は、炭鉱の労働組合とのものだった。1984年3月、政府の国営石炭庁が赤字の炭鉱の閉鎖を打ち出すと、全国炭鉱労働組合はストライキに入った(イギリス炭鉱ストライキ)。政府は事前に石炭を備蓄し、警察を大量に動員して、ストは約1年続いた末に組合の敗北に終わった。その後、炭鉱はほとんどが閉鎖され、炭鉱で成り立っていた町の多くは、いまも仕事と活気を取り戻せていない。ストのさなかの1984年10月、保守党の大会が開かれていた海辺の町ブライトンのホテルで、北アイルランドの独立派の武装組織が仕掛けた爆弾が爆発し、5人が死んだ。サッチャーは難を逃れ、翌朝、予定どおり大会で演説した。

政府は、国営の通信、ガス、航空、鉄鋼、水道などの企業を次々に売却して民営化し、株を一般の人々に売り出した。公営住宅の住人には、住んでいる家を割安で買い取る権利を与えた。ロンドンの金融街では規制を一気に外し、世界の金融の中心としての地位を取り戻させた。株と家を持つ人々の国を作る、というのが彼女の狙いだった。こうした政策の組み合わせは、のちにサッチャリズムと呼ばれ、アメリカのロナルド・レーガンの政策と並んで、世界の多くの国に影響を与えた。
1987年、ある雑誌の取材で、彼女は、社会などというものは存在しない、あるのは個々の男と女、そして家族だ、と語った。この言葉は、弱い者を切り捨てる冷たさの象徴として繰り返し引かれる。前後の文脈では、問題を社会のせいにせず、まず自分と隣人が責任を持つべきだ、という趣旨だった。

外交では、ソ連を強く批判し、ソ連の新聞から「鉄の女」と呼ばれた。この呼び名を、彼女はむしろ喜んで受け入れた。一方で、1984年に、まだ書記長になる前のゴルバチョフがイギリスを訪れると、彼女は、この人とは一緒に仕事ができる、と評し、のちの米ソの歩み寄りの橋渡し役を務めた。ヨーロッパの統合には懐疑的で、国の主権をブリュッセルの官僚に渡すことに反対し続けた。
晩年の政権は、一人ひとりに同じ額を課す地方税、いわゆる人頭税でつまずいた。貧しい人にも金持ちと同じ額を求める税に反発が広がり、1990年3月にはロンドンで大きな暴動が起きた。ヨーロッパ政策をめぐる対立から副首相が辞任し、党首の座に挑戦者が名乗りを上げると、サッチャーは党首選挙の一回目で勝ちきれず、1990年11月、首相の座を退いた。11年半の在任は、20世紀のイギリスで最も長い。

イギリス初の女性首相でありながら、彼女は在任中、自分の内閣に女性の閣僚をほとんど登用せず、女性運動とは距離を置いた。性別ではなく能力で上った、というのが彼女の自負だった。退任後は貴族院の議員となり、晩年は認知症に苦しんだ。2013年4月、87歳で死去すると、ロンドンでは盛大な葬儀が営まれた。一方で、死が伝えられた夜、かつての炭鉱町などでは、その死を祝う人々が集まった。一人の首相の死が、これほど国を二つに割った例はまれである。