フランクフルト・キッチン

概要
ウィーン初の女性建築家マルガレーテ・シュッテ=リホツキーが、フランクフルト市の公営住宅1万戸のために設計した台所。6.5平方メートル。彼女は主婦の動きを撮影して歩数を数え、作業の順に棚と流しと竈を並べた。回転椅子、引き出し式の材料入れ、作り付けの収納、そして床の色まで(青は蝿が寄らないとされた)。工場の動作研究を家庭に持ち込んだのである。現代のシステムキッチンの原型になった。彼女自身は、後に「私は料理をしたことがなかった」と語っている。
場所
50.11°N 8.68°E · ドイツ・ヘッセン州
関わった人(1)
マルガレーテ・シュッテ=リホツキーAD1897年1月23日–AD2000年1月18日 · 設計した本文
第一次大戦に敗れた後のドイツでは、住宅が決定的に足りなかった。都市の労働者の多くは、日の差さない古い集合住宅の狭い部屋に家族で暮らしていた。新しく生まれた共和国(ヴァイマル憲法)のもとで、自治体の中には大規模な公営住宅の建設に乗り出すところが現れた。その代表がフランクフルトである。1924年に市長となった社会民主党のルートヴィヒ・ラントマンは、翌年、建築家エルンスト・マイを市の建築の責任者に招いた。マイの計画「新フランクフルト」は、数年のうちに一万戸を超える住宅を建てるというもので、労働者にも日当たりと緑、水道と便所、そしてきちんとした台所のある住まいを、という考えに立っていた。
その台所を任されたのが、マルガレーテ・シュッテ=リホツキーである。1897年にウィーンで生まれ、1915年、男子学生が戦争に取られていた時期にウィーン応用美術学校の建築の課程に入った、オーストリアで最初期の女性の建築家だった。指導教授に労働者の住宅を手がけるよう勧められた彼女は、卒業後、ウィーンの郊外で進んでいた市民の自力による住宅地づくりに加わった。戦後の食糧難の中で、市民たちは郊外の土地に小屋を建てて野菜を作っていた。その無秩序な小屋の群れを、整った住宅地に作り替える仕事である。彼女は住民の家を一軒ずつ訪ね、人々が実際にどう暮らしているかを見て回った。

そこで目についたのが、台所のひどさだった。労働者の住まいには独立した台所がないことが多く、居間の隅に竈があって、そこで料理をし、洗濯をし、体を洗い、家族が食事をして眠った。逆に台所が広すぎて、そこが暮らしのすべての場になっている家もあった。
1926年、二十九歳の彼女はマイに招かれてフランクフルトへ移った。課題は、大量に作れて安く、しかも働きやすい台所を作ることだった。彼女が持ち込んだのは、工場の作業を分析する方法である。アメリカのテイラーが唱えた科学的管理法、作業の動きを撮影して無駄を削ったギルブレス夫妻の動作研究、そして家事に工場の効率を当てはめるよう説いたクリスティーン・フレデリックの著作が下敷きになった。彼女は食事の支度の一連の動きを観察し、何歩歩くか、何度かがむか、どれだけ手を伸ばすかを確かめて、それをもとに配置を決めた。

できあがった台所は、幅一・九メートル、奥行き三・四メートル、六・五平方メートルほどの細長い部屋だった。狭いのは意図してのことで、主婦が無駄に歩かなくてよいように、作業の順に設備を並べた。窓の前に手元の明るい作業台、その隣に流し、さらにその隣にガスの焜炉。洗った物をそのまま鍋に入れられる。壁一面には作り付けの棚が並び、十八個のアルミニウムの引き出しには、米や砂糖、小麦粉、豆などを入れた。引き出しの前面には注ぎ口が付いていて、引き出しごと持ち上げて量りながら注げる。回転する椅子に座ったまま、流しから焜炉へ向きを変えられた。アイロン台は壁から引き出せ、洗った食器はそのまま水切りの棚に置けば水が下の受け皿に落ちる。天井の照明はレールに沿って動かせた。作業台や戸棚は青く塗られた。当時、蝿は青を嫌うと信じられていたからだが、この説の根拠は後に疑わしいとされている。
彼女の考えでは、台所は家族が集まる場所ではなく、作業の場所だった。だから狭くてよい。台所を居間から切り離せば、主婦は短い時間で集中して仕事を終えられ、居間は家族がくつろぎ、子どもが勉強し、大人が本を読む場所になる。家事にかかる時間を減らすことは、女性が職業を持って社会に出るための条件だと、彼女は考えていた。
部品は規格をそろえて工場で作られ、現場で組み立てられた。こうしておよそ一万の台所が、フランクフルトの公営住宅に据え付けられた。
台所の型は一つではなく、住戸の広さに応じて、居間と一体にした小さな型や、家事を手伝う人がいる家向けの広い型など、いくつかの変種が用意された。ただ、新しい住宅は設備がよいぶん家賃も高く、本当に住まいに困っていた労働者よりも、勤め人や熟練工の家庭が多く入居したという指摘もある。
批判は当時からあった。狭すぎて子どもの様子を見ながら料理ができない。二人で並んで作業できない。家族が手伝おうにも入れない。そして、主婦がひとりで効率よく家事をこなすという前提そのものが、家事は女の仕事という分担を固めてしまう、という指摘である。住んだ人々の声も、使いやすいというものと、閉じ込められているようだというものの両方があった。引き出しの中身を勝手に入れ替える人もいれば、設備を取り外して広い台所に戻した家もあった。彼女自身、この台所を設計したころはほとんど料理をしたことがなかったと、後年語ったとされる。
それでも、この台所が残した影響は大きかった。作業の順に流しと調理台と熱源を並べること、作り付けの収納、ひと続きの作業台、規格化された寸法。こうした考え方は、第二次大戦後のヨーロッパやアメリカの量産の台所に受け継がれ、いまのシステムキッチンの原型になった。のちにバウハウスの創立と並んで、ワイマール期のドイツが生んだ近代の暮らしの形の一つに数えられるようになる。
シュッテ=リホツキーの人生は、台所だけでは終わらない。1930年、彼女はマイの一団とともにソ連へ渡り、第一次五か年計画のもとで新しい工業都市の学校や幼稚園を設計した。粛清が激しくなり外国人技師の立場が危うくなった1937年にソ連を離れ、日本や中国を経てイスタンブールへ移った。1940年、彼女はオーストリアの共産党の連絡員として、ナチス・ドイツに併合されたウィーンへ潜入した。抵抗運動のためである。だが数週間のうちにゲシュタポに捕らえられ、死刑を求刑された末に懲役十五年の判決を受けた。1945年、収監されていたバイエルンの刑務所でアメリカ軍に解放されるまで、獄中で過ごした。
戦後、オーストリアに戻ったものの、共産党員だった彼女には、冷戦下の国内で公共の建築の仕事はほとんど回ってこなかった。東ドイツやブルガリア、中国、キューバなどで仕事をし、平和運動や女性運動にも関わった。オーストリアで本格的に再評価が始まったのは1980年代になってからである。1988年、オーストリアの名誉ある勲章を贈られることになったとき、彼女は、戦時中の経歴が問題になっていたヴァルトハイム大統領の手から受け取ることを拒んだとされる。
2000年1月18日、シュッテ=リホツキーはウィーンで死去した。百三歳の誕生日の五日前だった。いまもフランクフルトやウィーン、ニューヨークなどの美術館に、復元されたり保存されたりしたフランクフルト・キッチンが展示されている。台所を一つの道具として設計し直すという発想は、彼女の名前を知らない多くの家庭の、毎日の動線の中に生きている。