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Event / できごと

フランクフルト・キッチン

The Frankfurt Kitchen
AD1926年
重要度 4

概要

ウィーン初の女性建築家マルガレーテ・シュッテ=リホツキーが、フランクフルト市の公営住宅1万戸のために設計した台所。6.5平方メートル。彼女は主婦の動きを撮影して歩数を数え、作業の順に棚と流しと竈を並べた。回転椅子、引き出し式の材料入れ、作り付けの収納、そして床の色まで(青は蝿が寄らないとされた)。工場の動作研究を家庭に持ち込んだのである。現代のシステムキッチンの原型になった。彼女自身は、後に「私は料理をしたことがなかった」と語っている。

場所

フランクフルト
50.11°N 8.68°E · ドイツ・ヘッセン州

関わった人(1)

マルガレーテ・シュッテ=リホツキーAD1897年1月23日–AD2000年1月18日 · 設計した

本文

**背景**。

第一次大戦後のドイツ。ワイマール共和国。

**住宅が、決定的に足りなかった**。

フランクフルト市では、1925年に社会民主党の市長**ルートヴィヒ・ラントマン**が、大規模な住宅供給計画を始めた。

市の建築局長に招かれたのが、**エルンスト・マイ**。

彼の計画「**新フランクフルト**」。5年間で、**約1万2000戸**の公営住宅を建てる(当時の市の住宅の1割以上)。

思想。労働者にも、日当たりと、緑と、水道と、便所と、そして**きちんとした台所**のある住まいを。

**シュッテ=リホツキー**。

**マルガレーテ・リホツキー**。1897年、ウィーン生まれ。

ウィーン応用美術学校に入学した、**最初期の女性の一人**(1915年。男子学生が戦争に取られて、女性の入学が認められた)。

指導教官オスカー・ストルナドが、彼女に労働者住宅の設計を勧めた。

彼女は、卒業後、ウィーンの**「アパート菜園(ジードルンク)」運動**に関わった。

戦後の食糧難の中で、市民が郊外の土地に小屋を建て、野菜を作っていた。無秩序な小屋を、整った住宅地に作り替える仕事である。

彼女は、実際に住民の家を訪ね、**どう暮らしているかを見た**。

そして、気づいた。

**台所が、ひどい**。

労働者の住宅には、多くの場合、独立した台所がない。居間の隅に竈があり、そこで料理し、洗濯し、体を洗い、そして家族が食事をし、寝る。

あるいは、台所が広すぎて、そこが生活のすべての場になっている。

**招請**。

1926年、エルンスト・マイが彼女をフランクフルトに招いた。29歳。

彼女に与えられた課題——**大量に作れて、安く、そして働きやすい台所**。

**方法**。

彼女は、**時間動作研究**を持ち込んだ。

参照したのは、

- **フレデリック・テイラー**の科学的管理法(工場の作業の分析) - **フランク・ギルブレスとリリアン・ギルブレス**夫妻の動作研究。彼らは、レンガ積みの動作を撮影して、無駄な動きを削った。リリアン・ギルブレスは心理学者で、後に台所の設計にも取り組んだ。 - **クリスティーヌ・フレデリック**『**新しい家事**』(1913年)。アメリカで、家事に工場の効率を適用することを説いた。

シュッテ=リホツキーは、**主婦の動きを実際に測った**。

食事の支度の一連の動作を撮影する。何歩歩くか。何回、身をかがめるか。手を伸ばす距離。

そして、その結果から、**配置を決めた**。

**設計**。

寸法:**1.9m × 3.4m = 約6.5平方メートル**(畳4畳ほど)。

狭い。**意図的に狭い**。

「主婦が、一歩も無駄に歩かなくてよいように」。

内容。

- **作業台**(窓の前。手元が明るい) - **流し**(作業台の隣) - **ガス竈**(流しの隣。洗った物をそのまま鍋へ) - 作り付けの**収納**。壁面いっぱい。 - **アルミの引き出し**が18個。それぞれに、米、砂糖、小麦粉、豆などが入り、前面に注ぎ口が付いていて、**そのまま計って注げる**。中身の名がラベルで貼ってある。 - **回転する椅子**。座ったまま、流しから竈へ向きを変えられる。 - **アイロン台**が、壁から引き出せる。 - **食器を洗って、そのまま水切りする棚**(下の受け皿へ水が落ちる)。 - 天井の照明が、**レールで左右に動く**。手元を照らす。 - **ゴミ箱**が引き出しの中に。

**色**。

作業台と引き出しは、**青**。

理由——当時、**蝿が青を嫌う**と信じられていた。

(この俗説の科学的な根拠は、後に疑問視されている。ただし、青は当時の心理学で「食欲を減退させる」ともされ、清潔感の演出としても選ばれた。)

**思想**。

彼女が明確に述べていること。

台所は、**家族が集まる場所ではない**。**作業の場所**である。

だから、狭くてよい。むしろ、狭いほうが効率がよい。

そして、台所を居間から**分離する**。

これは、二つの意図を持っていた。

(1)**主婦が、集中して、短時間で作業を終えられる**。子どもが走り回らない。

(2)**居間が、居間として使える**。家族が、団らんし、子どもが宿題をし、大人が本を読む場所ができる。

彼女の主張は、**家事の時間を短縮して、女性を解放する**ことにあった。

「**女性が、職業を持ち、社会に参加するためには、家事にかける時間を減らさなければならない**」。

**製造**。

**約1万台**が作られ、フランクフルトの公営住宅に据え付けられた。

規格化された部品を工場で作り、現場で組み立てる。

**批判と、その後**。

同時代から、批判があった。

- **狭すぎる**。子どもを見ながら料理できない。 - **一人用**である。二人で作業できない。 - 家族が台所に入れない。手伝えない。 - 「主婦が一人で、効率的に家事をする」という前提そのものが、**性別役割分担を固定する**。

(実際に住んだ人の記録には、「使いやすい」という声と、「閉じ込められているようだ」という声の両方がある。引き出しの中身を勝手に変える住民もいた。取り外して、大きな台所に戻す例もあった。)

そして、彼女自身が、後年、こう語っている。

「**私は、フランクフルト・キッチンを設計したとき、料理をしたことがほとんどなかった**」。

**その後**。

デザインとしては、決定的な影響を残した。

- **作業の順に、流し・調理台・熱源を並べる**。 - **作り付けの収納**。 - **連続した作業台(カウンター)**。 - 標準化された寸法。

これが、1950年代のアメリカとヨーロッパの「システムキッチン」に受け継がれた。

(アメリカでは、1940〜50年代に「**ワーク・トライアングル**」——冷蔵庫・流し・コンロを三角形に配置する——という原則が定式化された。)

**シュッテ=リホツキー**。

彼女の人生は、台所だけではない。

1930年、エルンスト・マイの一団とともに、**ソ連へ渡った**。第一次五カ年計画の都市建設。マグニトゴルスク、そしてシベリアの新都市。学校と幼稚園を設計した。

1937年、スターリンの粛清が始まり、外国人技師の立場が危うくなった。彼女は出国した。

日本、中国、そしてイスタンブールへ。

1940年、彼女は**オーストリア共産党の連絡員として、ウィーンに潜入した**。反ナチスの抵抗運動である。

**入国から25日後に、ゲシュタポに逮捕された**。

死刑を求刑され、懲役15年。バイエルンの刑務所で、**4年半**を過ごした。

1945年、アメリカ軍によって解放された。

**戦後**。

オーストリアに戻ったが、彼女は**共産党員だった**。冷戦下のオーストリアで、公共の建築の仕事は、ほとんど回ってこなかった。

彼女は、東ドイツ、ブルガリア、中国、キューバで仕事をした。

1980年代になって、ようやくオーストリアで再評価が始まった。

1988年、ウィーン市名誉賞。彼女は、オーストリア名誉勲章の授与を、**授与する側の閣僚に元ナチス党員がいることを理由に、辞退した**。

**2000年1月18日**、死去。**102歳**。

誕生日の5日前だった。

**現在**。

現存するフランクフルト・キッチンは、数十台とされる。

ウィーンのMAK(応用美術館)、ニューヨーク近代美術館(MoMA)、ロンドンのV&A、そしてフランクフルトの建築博物館に、復元あるいは実物が展示されている。

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