概要
清洲会議で秀吉は信長の孫三法師を立て、柴田勝家は信長の三男信孝を立てた。琵琶湖の北で対陣。勝家の甥佐久間盛政が抜け駆けし、秀吉は大垣から52キロを5時間で戻って攻めた。「賤ヶ岳の七本槍」。勝家は北ノ庄で市(信長の妹)と共に自害した。市の3人の娘(茶々、初、江)は秀吉が引き取った。
場所
35.50°N 136.17°E · 滋賀県長浜市
関わった人(2)
豊臣秀吉AD1537年–AD1598年 · 勝った柴田勝家AD1522年頃–AD1583年6月14日 · 自害した本文
清洲会議(1582年6月27日)。信長の後継を、次男信雄、三男信孝、孫三法師の間で決めた。秀吉は三法師(3歳)を推し、柴田勝家は信孝を推した。丹羽長秀と池田恒興が秀吉についた。三法師。領地の配分は秀吉が多く取った。勝家は市(信長の妹、浅井長政の未亡人)を娶った。信長の妹の夫。
冬、勝家は北ノ庄(福井)で雪に閉じ込められた。秀吉は動いた。信孝を岐阜で降し、滝川一益を伊勢で囲んだ。1583年3月、勝家は雪が溶けると近江に出て、余呉湖の北の山に陣を敷いた。秀吉も。対陣。1か月。
4月、信孝が岐阜でまた立った。秀吉は大垣へ向かった。4月20日、勝家の甥の佐久間盛政が、秀吉のいない隙に賤ヶ岳の砦を襲い、中川清秀を殺した。勝家は「すぐ戻れ」と言い、盛政は戻らなかった。秀吉は大垣で知らせを受け、夜、52キロを5時間で戻った。「美濃大返し」。道に松明と握り飯を用意させた。
4月21日の朝、秀吉が賤ヶ岳にいた。盛政は挟まれた。前田利家が戦わずに退いた(秀吉と通じていた)。柴田の軍は崩れた。「七本槍」。福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元。若い秀吉の子飼いが、この戦いで手柄を立てた、として後に宣伝された。
勝家は北ノ庄へ逃げた。4月24日、天守で市と共に自害した。市の3人の娘、茶々(淀殿)、初(京極高次の妻)、江(徳川秀忠の妻)は城を出されて、秀吉に引き取られた。信孝は野間で自害させられた。
信長の家臣の筆頭が死んで、秀吉が織田家の主になった。