できごと

賤ヶ岳の戦い

Battle of Shizugatake
AD1583年6月11日(天正11年4月21日)
重要度 4
賤ヶ岳の戦いに関わる図版:Battle of Shizugatake
Battle of Shizugatake Wikimedia Commons Utagawa Toyonobu · Public domain

概要

清洲会議で秀吉は信長の孫三法師を立て、柴田勝家は信長の三男信孝を立てた。琵琶湖の北で対陣。勝家の甥佐久間盛政が抜け駆けし、秀吉は大垣から52キロを5時間で戻って攻めた。「賤ヶ岳の七本槍」。勝家は北ノ庄で市(信長の妹)と共に自害した。市の3人の娘(茶々、初、江)は秀吉が引き取った。

場所

賤ヶ岳
35.50°N 136.17°E · 滋賀県長浜市

関わった人(2)

豊臣秀吉AD1537年–AD1598年 · 勝った柴田勝家AD1522年頃–AD1583年6月14日 · 自害した

本文

1582年6月、本能寺の変で織田信長と嫡男の信忠が死んだ。中国地方で毛利と戦っていた羽柴(のちの豊臣)秀吉はすぐに和睦して引き返し、山崎の戦いで明智光秀を破った。主君の仇を討ったことで、秀吉は織田家の重臣の中で一気に重みを増した。

6月27日、織田家の重臣たちは尾張の清洲城に集まり、跡継ぎと領地の分け方を話し合った。清洲会議である。候補は信長の次男の信雄、三男の信孝、そして信忠の遺児でまだ幼い三法師だった。秀吉は嫡流の三法師を推し、筆頭の重臣だった柴田勝家は、器量のある信孝を推したと伝えられる。丹羽長秀と池田恒興が秀吉の側につき、三法師が跡を継ぎ、信孝がその後見になることで決まった。領地の分け方でも秀吉は多くを得た。

Japan Kinai Sankan topographic map
Wikimedia Commons Soren Bradley · CC BY 4.0

会議の後、勝家は信長の妹の市を妻に迎えた。市はかつて北近江の浅井長政に嫁ぎ、長政が信長に滅ぼされてから、三人の娘とともに織田家に戻っていた。織田の血を引く妻を得たことは、勝家が信長の後を守る者であることを示す意味を持った。

勝家の本拠は越前の北ノ庄(いまの福井市)で、冬になると雪で道が閉ざされる。秀吉はその間に動いた。12月、勝家の養子が守る近江の長浜城を降し、岐阜の信孝を囲んで降伏させ、三法師を手元に取り戻した。翌1583年の初めには、勝家と結ぶ伊勢の滝川一益を攻めた。

月岡芳年の浮世絵シリーズ「月百姿」 No. 67、志津か嶽月 秀吉
月岡芳年の浮世絵シリーズ「月百姿」 No. 67、志津か嶽月 秀吉Wikimedia Commons Yoshitoshi · Public domain

雪が解け始めた3月、勝家は大軍を率いて近江の北へ出た。琵琶湖の北、余呉湖を囲む山々に柴田方と羽柴方が砦を築いて向かい合い、1か月余りにらみ合った。4月、岐阜の信孝が再び兵を挙げると、秀吉は軍の一部を残して美濃の大垣へ向かった。

この隙を突いたのが、勝家の甥の佐久間盛政である。4月20日の未明、盛政は山を回って羽柴方の大岩山砦を奇襲し、守将の中川清秀を討ち取った。勝家は深入りせずに引き返せと命じたが、盛政は戦果に乗ってそのまま陣にとどまった。

賤ヶ岳山頂と余呉湖
賤ヶ岳山頂と余呉湖Wikimedia Commons Alpsdake · CC0

大垣で報せを受けた秀吉は、ただちに引き返した。大垣から木之本まで約52キロを、5時間ほどで駆け戻ったとされる。沿道の村々に松明をともさせ、炊き出しを用意させたと伝えられる。「美濃の大返し」である。夜のうちに秀吉の大軍が戻ったのを見て、盛政は退き始めたが、間に合わなかった。

4月21日、羽柴軍は退く佐久間勢に追いすがり、賤ヶ岳の周りで激しい戦いになった。そのさなか、柴田方として布陣していた前田利家の軍が、戦わずに戦場を離れた。利家は秀吉と若いころから親しく、どちらにつくか迷っていたと考えられている。これをきっかけに柴田方は崩れた。

福島正則(賤ヶ岳合戦図屏風)
Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

この戦いで功を立てた秀吉の若い家臣たち、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元の7人は「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれた。ただし、褒美の書状をもらったのは実際には7人より多く、7人に絞ったのは後の世の呼び方で、秀吉が子飼いの武将を売り出すために広めた面もあるとされる。

勝家は北ノ庄へ逃げ帰った。秀吉の軍がすぐに城を囲んだ。4月24日、勝家は城の天守に火をかけ、市とともに自害した。市はそれまでに夫を二度、兄の手で失ったことになる。市の三人の娘、茶々・初・江は城から出され、秀吉に引き取られた。茶々はのちに秀吉の側室となって秀頼を産み、淀殿と呼ばれる。初は京極高次に、江は徳川秀忠に嫁ぎ、江の娘は天皇の后になった。信孝は兄の信雄に攻められ、5月、尾張の野間で自害させられた。

平野長泰(賤ヶ岳合戦図屏風)
Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

信長の家臣の筆頭が滅び、秀吉は織田家の家臣という立場を事実上抜け出した。この年の秋、秀吉は大坂に巨大な城を築き始める。翌年、信雄と徳川家康を相手に小牧・長久手の戦いを戦い、やがて秀吉の天下統一へ進んでいく。賤ヶ岳は、豊臣秀吉が信長の後継者になった戦いだった。

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