女王の無痛分娩
概要
ヴィクトリア女王が八人目の子を産むとき、ジョン・スノウがクロロホルムを与えた。布に垂らし、陣痛のたびに嗅がせる。女王は「あの祝福されたクロロホルム」と日記に書いた。出産の痛みを消すことには強い反対があった。産みの苦しみは創世記に定められたものであり、取り去るのは神への背きだという主張である。医学の側からも、痛みは分娩を進める力だと言われた。女王が使ったことで、その議論は事実上終わった。誰が痛みを引き受けるべきかは、医学ではなく地位が決めた。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
旧約聖書の創世記の第3章には、楽園を追われるエバに神が告げる言葉がある。あなたの産みの苦しみを大いに増す、あなたは苦しんで子を産む、というものだ。19世紀の半ば、出産の痛みを薬で和らげることの是非をめぐる論争では、この一節がたびたび持ち出された。出産の痛みは神が定めたものであり、それを取り去るのは定めに背くことだ、というのである。
ただし、これを教会が組織として麻酔に反対した、という単純な話として受け取るのは正しくない。反対したのは一部の聖職者と一部の医師であり、賛成する聖職者もいた。賛成の側がよく持ち出したのも、創世記だった。神はアダムのあばら骨を取ってエバを作るとき、まず彼を深く眠らせたではないか。最初の外科手術には、最初の麻酔があった、という理屈である。

むしろ強かったのは、医学の側からの反対だった。痛みはお産を進める力であり、痛みを消せば子宮の収縮が弱まってお産が止まってしまう、と言う医者がいた。麻酔の薬そのものも危なかった。1848年、イングランドで15歳の少女ハンナ・グリーナーが、足の爪を抜く小さな手術のためにクロロホルムを吸わされ、そのまま亡くなった。記録に残る最初のクロロホルムによる死とされる。クロロホルムは、ときに心臓を突然止めることがあった。さらに、麻酔の下で女性が慎みを失い、みだらなことを口走る、という報告がまことしやかに書かれた。苦しんで産むからこそ母は子を愛するのだ、と真面目に論じる医者さえいた。
麻酔そのものは、1840年代に急速に広まったばかりだった。笑気ガスが見世物として楽しまれた時代(笑気ガスの見世物)を経て、1846年にはボストンでエーテルによる手術が公開され(エーテル麻酔の公開)、痛みの無い手術が現実になった。翌1847年、エディンバラの産科医ジェイムズ・ヤング・シンプソンは、エーテルより扱いやすいクロロホルムの麻酔の力を見つけ、すぐにお産に使い始めた。シンプソンは反対論の矢面に立ち、アダムの眠りの理屈を広めた一人でもあった。

ロンドンでこの新しい技術を最も深く研究していたのが、医師ジョン・スノウ(1813〜1858年)だった。スノウは麻酔を一つの専門の技術として扱った、最も早い医師の一人である。エーテルやクロロホルムの濃さと量と効き方を丁寧に測り、吸わせるための器具を自分で設計し、どれだけ与えれば安全かを数字で確かめようとした。同じスノウは、翌年からのロンドンのコレラの流行で、病気が汚れた水を通して広がることを突き止めていく(ジョン・スノウのコレラ地図)。注意深く観察し、数え、原因を一つに絞り込む。麻酔でもコレラでも、彼のやり方は同じだった。
1853年4月7日、バッキンガム宮殿で、ヴィクトリア女王は8人目の子を産んだ。のちのレオポルド王子である。立ち会ったスノウは、ハンカチにクロロホルムを少しずつ垂らし、陣痛が来るたびに女王の鼻と口に当てた。女王を完全に眠らせることはせず、意識を保ったまま痛みだけを鈍らせる。そうして、50分あまりにわたって断続的にクロロホルムを与えた。女王はその日の日記に、あの祝福されたクロロホルムと書き、その効き目は痛みを鎮め、言葉にできないほど心地よかったと記している。

宮廷は、女王がクロロホルムを使ったことを公式には発表しなかった。否定もしなかった。医学雑誌の中には、健康なお産に危険な薬を使ったことを批判する論説を載せたものもあった。だが、4年後の1857年、9人目の子ベアトリス王女を産むときにも、女王は再びスノウの麻酔を受けた。
論争は、これで事実上終わった。理屈で説き伏せられたのではない。女王が使った、ということで決着がついたのである。上流の女性たちは、女王がなさったことを自分も望むようになり、お産の麻酔はそこから少しずつ社会に広がっていった。女王のやり方はのちに「女王式のクロロホルム」と呼ばれ、意識を残したまま痛みを和らげる方法の代名詞になった。

ところが、痛みを消せるようになったあとで、新しい問いが生まれた。誰の痛みを消すのか、という問いである。麻酔は誰にでも与えられたわけではなかった。貧しい患者には、費用や手間を理由に使われないことが多かった。人種による差別もあった。黒人は痛みに強い、という根拠の無い主張が医学書に書かれていた。アメリカの婦人科医J・マリオン・シムズは、エーテルの麻酔が公開された前後の時期に、奴隷にされた黒人女性たちに麻酔をかけないまま何度も手術を繰り返した。のちに婦人科学の父とたたえられた彼の像は、2018年、ニューヨークの公園から撤去された。こうした差が、形を変えていまも残っていることを示す研究がある。アメリカの救急の現場では、同じような骨折でも、患者の人種によって処方される鎮痛薬に差がある、という報告が繰り返されている。
それまで、痛みには意味があるとされてきた。罪のあがない、目覚め、そして母になること。19世紀の半ばの数十年で、その意味は一枚ずつ剥がされていった。笑気ガスで痛みが消えることが気づかれ、エーテルで手術の痛みが消せることが示され、そして女王のお産で、最後まで残っていた反対が畳まれた。痛みが意味を失い、ただの症状になったとき、痛みは消してよいものになり、やがて消さなければならないものになった。その行き着いた先の一つが、20世紀の終わりからの鎮痛薬の乱用の広がりである(オキシコンチン)。誰がどれだけの痛みを引き受けるべきかを決めたのは、医学だけではなかった。1853年の宮殿では、それを決めたのは女王という地位だった。