ハトシェプストの治世
概要
女性でファラオを名乗り、交易で栄えた20年。死後、その名は記念物から削り取られた。
場所
25.74°N 32.61°E · エジプト・ルクソール
関わった人(1)
ハトシェプスト?–BC1458年頃 · 当人本文
紀元前16世紀、テーベの王家はヒクソスをエジプトから追い出し(ヒクソスのエジプト支配)、新王国の時代を開いた(エジプト新王国)。ハトシェプストはその第18王朝の王トトメス1世と正妃の娘として生まれた。父はヌビアとシリアに遠征して版図を広げた王である。ハトシェプストは慣わしに従って異母兄のトトメス2世と結婚し、王妃となった。二人の間には娘が一人いたが、王子は生まれなかった。
紀元前1479年ごろ、トトメス2世が若くして亡くなった。跡を継いだのは、トトメス2世が身分の低い妻との間にもうけた幼い息子、トトメス3世である。ハトシェプストにとっては夫の子で、義理の息子にあたる。幼い王に代わって、ハトシェプストが摂政として政治を執った。ここまでは、エジプトでも前例のあることだった。

だが数年のうちに、ハトシェプストは自ら王として即位し、ファラオの称号と王名を名乗った。トトメス3世を退けたわけではなく、二人は共同の王として並び立ったが、実権はハトシェプストが握った。即位を正当化するため、彼女は自分の神殿の壁に、神アメンが父トトメス1世の姿を借りて母のもとを訪れ、自分が生まれたという物語を刻ませた。自分は神の子であり、父から後継者に指名されていた、というのである。
ファラオは男性の役目として形が決まっていた。王の称号も、王の装いも、男性のものしか用意されていない。ハトシェプストの像は、初めのうちは女性の体つきで作られたが、やがて胸の平らな男性の体に、王の頭巾と付け髭をつけた姿で表されるようになる。碑文でも、彼女を指す言葉に女性形と男性形が入り混じっている。女性であることを隠したのではなく、王という役割の形に自分を当てはめたのだと考えられている。

治世はおよそ20年に及び、戦争よりも建築と交易で知られる。とりわけ有名なのが、治世9年ごろに送り出した「プント」への遠征である。プントは香料と黄金の国として古くから知られ、紅海の南の沿岸、いまのエリトリアからソマリアのどこかにあったとみられるが、場所は確定していない。5隻の船団は紅海を下って、没薬や乳香、黒檀、象牙、金、豹の皮、生きた猿などを持ち帰った。没薬の木は根に土をつけたまま籠に入れて運ばれ、神殿の庭に植えられた。外国から植物を生きたまま移した、記録に残る最も古い例の一つとされる。
この遠征の様子は、テーベの西岸、デイル・エル・バハリの崖の下に建てられた葬祭殿の壁に、浮き彫りで細かく描かれている。プントの家々が高床であったこと、プントの王妃がひどく太った姿であったことまで描かれている。神殿そのものも、三段の広いテラスが列柱で崖に寄り添う独特の姿で、古代エジプトの建築の傑作とされる。設計に関わったとされる重臣センエンムトは、王女の養育係も務めた側近で、ハトシェプストの治世を支えた人物だった。カルナックのアメン神殿には、高さ約30メートルの花崗岩のオベリスクを立てた。そのうち1本はいまも立っている。

紀元前1458年ごろ、ハトシェプストは亡くなった。単独の王となったトトメス3世は、すぐにシリアへ遠征してメギドの戦いに勝ち、その後も十数回の遠征でエジプトの勢力を大きく広げ、古代エジプト最大の征服王と呼ばれる。
そのトトメス3世の治世の後半、ハトシェプストの名と姿が、記念物から組織的に削り取られ始めた。像は打ち砕かれて石切り場に捨てられ、神殿の浮き彫りの彼女の姿は削られ、王名の一覧からも名が外された。オベリスクは石の壁で囲まれて見えなくされた。かつては、長く押さえつけられたトトメス3世の恨みによるものと考えられていた。しかし削り取りが始まったのは彼女の死から20年ほどたってからで、それも王としての姿に限られ、王妃としての姿は残されていることが多い。そこで、女性の王という前例を消し、王位の継承を父から息子への順当な並びに見せるための政治的な処置だった、という見方が有力になっている。
その結果、ハトシェプストの名は後の時代の王名表から消え、19世紀に考古学者たちが神殿の壁の不思議な碑文を読み解くまで、ほとんど忘れられていた。2007年には、エジプトの調査団が、王家の谷の小さな墓で見つかっていた女性のミイラを、歯の照合などからハトシェプストのものと発表したが、この同定に疑問を持つ研究者もいる。