人物

緒方貞子

Ogata Sadako
AD1927年9月16日 – AD2019年10月22日(享年92)
日本重要度 3

概要

国連難民高等弁務官を10年務めた。国境の内側にいる避難民も助けるという判断で、支援の枠を広げる。

所属

日本

関わったできごと(1)

ルワンダ虐殺1994年 · 難民高等弁務官として関わった

本文

緒方貞子は1927年9月16日、東京に生まれた。旧姓は中村。父の中村豊一は外交官で、母方の祖父の芳沢謙吉は外務大臣、その義父、つまり曾祖父は首相の犬養毅だった。貞子が4歳のとき、犬養は首相官邸で海軍の青年将校らに撃たれて死んだ(五・一五事件)。父の任地に従って、幼いころをアメリカのサンフランシスコや中国の広州、香港で過ごした。

戦後、聖心女子大学の最初の卒業生の一人となり、アメリカのジョージタウン大学で国際関係論を学んだ。さらにカリフォルニア大学バークレー校で博士号を取った。論文のテーマは満州事変で、軍の出先がなぜ政府の統制を振り切って戦争を広げたのかを、日本の政策決定の内側から解き明かしたものだった。曾祖父を死に至らしめた時代の軍部の暴走を、学者として見つめ直したことになる。1960年、日本銀行に勤める緒方四十郎と結婚し、二人の子を育てながら研究を続けた。

1968年、婦人運動家の市川房枝に推されて、国連総会の日本代表団に加わったことが、国際機関との縁の始まりになった。1976年には日本の女性として初めて国連の公使となり、のちに国連の人権委員会の日本代表も務めた。大学では国際基督教大学や上智大学で国際政治を教え、上智大学では外国語学部長になった。

1990年12月、緒方は国連難民高等弁務官に選ばれた(国連難民高等弁務官事務所と難民条約)。63歳だった。日本人として、また女性として初めての就任である。その数か月後、最初の大きな試練が来た。湾岸戦争のあと、イラク北部でクルド人が蜂起し、フセイン政権の反撃を受けて、数十万から百万を超える人々が山岳地帯を越えて逃げ出した。イランは多くを受け入れたが、トルコは国境を閉ざし、人々は雪の残る国境の山の斜面に取り残された。

難民の地位を定めた難民条約の考え方では、難民とは国境を越えて他国に逃れた人を指す。国境を越えられないまま国内にとどまる人は「難民」に当たらず、UNHCRの仕事の外になる。組織の中には、規則を盾に手を出すべきではないという声も強かった。緒方は、多国籍軍が設けたイラク国内の安全地帯で、避難民を保護し支援する決断をした。命を守ることが先で、規則はそのためにある、という趣旨を後に語っている。国内避難民も助けるというこの判断は、以後の人道支援の枠を大きく変えた。

10年の任期のあいだ、大きな危機が続いた。旧ユーゴスラヴィアのボスニア紛争では、UNHCRが人道援助の調整を任された。包囲下のサラエヴォ(サラエヴォ包囲)には、空から食料や薬を運ぶ空輸を組織し、それは3年半に及んだ。緒方自身も防弾チョッキを着て、小柄な体で包囲下の町に入っている。1994年のルワンダ虐殺のあとには、隣国のザイール(いまのコンゴ民主共和国)に100万人を超える人々が逃れた。その中には、虐殺を行った民兵や旧政府軍の兵士もまじり、キャンプを支配していた。助けるべき難民と、罪を犯した者を見分けられないまま援助を続けるのか。人道支援の限界をつきつけられた経験だったと、緒方は振り返っている。1999年のコソヴォ紛争とNATOの空爆でも、数十万の人々の流出に向き合った。

現場へ行く弁務官として知られた。何かが起きると、まず自分で現地に入り、自分の目で見てから決めた。小柄で物静かな人だったが、各国の首脳や軍の指導者を相手に、一歩も引かなかった。2000年に退任するまで、職員の数も予算も大きく増え、UNHCRは世界最大級の人道機関になった。

退任後も、休む間は無かった。2001年の同時多発テロのあと、アフガニスタン戦争が始まると、日本政府のアフガニスタン支援の特別代表となり、2002年に東京で開かれた復興支援の国際会議で共同議長を務めた。インドの経済学者アマルティア・センとともに国連の「人間の安全保障委員会」の共同議長も務め、国家の安全ではなく、一人ひとりの人間の命と尊厳を守るという考え方を広めた。2003年からは国際協力機構(JICA)の理事長として、8年あまりにわたって日本の途上国援助を率いた。

2019年10月22日、緒方貞子は92歳で死んだ。難民の受け入れに慎重な日本に対して、もっと門を開くべきだと、晩年まで言い続けた。

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