ゼノビアのパルミラ
概要
三世紀の危機でローマが揺れた隙に自立し、エジプトまで押さえた。5年で鎮圧される。
場所
34.55°N 38.27°E · シリア・ホムス県
関わった人(1)
ゼノビアAD240年頃–? · 当人本文
シリア砂漠のただ中に、泉のわくオアシスがあり、古くからタドモルと呼ばれる町があった。ギリシア語やラテン語ではパルミラ、「なつめやしの町」である。東のユーフラテス川と西の地中海の港を結ぶ位置にあり、ペルシア湾から運ばれるインドの香料や中国の絹を、ラクダの隊商が砂漠を越えてローマ領へ運び込んだ。パルミラの商人たちは隊商を組織し、砂漠の部族と話をつけ、ユーフラテス沿いの港に拠点を置いた。1世紀から2世紀にかけて、町はローマ帝国の中でも指折りの富を蓄え、列柱の大通りやベル神殿が建てられた。
3世紀に入ると、ローマ帝国は皇帝が次々と殺される混乱の時代に入る(三世紀の危機)。東では、新たに起こったササン朝ペルシアが攻勢をかけてきた。260年、皇帝ウァレリアヌスがペルシアのシャープール1世との戦いで捕らえられるという前代未聞の事件が起きる(ローマ皇帝が捕らわれる)。このとき東方を救ったのが、パルミラの有力者オダエナトゥスだった。彼は自分の兵を率いてペルシア軍を追い返し、さらにペルシアの都クテシフォンの近くまで攻め込んだ。ローマの皇帝ガリエヌスは、彼に東方の防衛をゆだねた。

267年ごろ、オダエナトゥスは長男とともに暗殺された。犯人は親族とされるが、背後に誰がいたのかは分かっていない。残された妻のゼノビアは、幼い息子ウァバッラトゥスの後見人として、夫の地位と軍を引き継いだ。
ゼノビアは夫の時代のようにローマの代理人にとどまらなかった。西では帝国がガリアの分離(ガリア帝国)や北方の異民族の侵入に追われているのを見て、270年、パルミラの軍はエジプトへ攻め込み、これを押さえた。エジプトはローマの都へ穀物を送る穀倉である。続いて軍は小アジアに進み、中部のアンキュラ(今のアンカラ)のあたりまで勢力を広げた。帝国の東の半分近くが、砂漠の町の女王の手に落ちたことになる。

初め、ゼノビアはローマの皇帝の権威を認める形を保ち、貨幣にも皇帝の顔を刻ませていた。だが271年ごろから、息子に皇帝の称号を、自分には皇后の称号を名乗らせ、ローマから独立した帝国の姿を見せ始めた。
ゼノビアの宮廷は、さまざまな言葉と文化が交わる場所だった。パルミラの人々はアラム語系の言葉を話し、行政にはギリシア語を使い、ローマの法の下で暮らしていた。ゼノビアはギリシアの修辞学者で哲学者のロンギノスを顧問として迎えたと伝えられる。後のローマの伝記集は、彼女がエジプトの女王クレオパトラ7世の血を引くと称し、狩りを好み、兵と共に何キロも歩いたと書いている。ただし、この伝記集は作り話を多く含むことで知られ、どこまで本当かは分からない。

270年に即位したローマの皇帝アウレリアヌスは、まず西の守りを固めたあと、272年に東へ向かった。アンティオキアの近くとエメサで、パルミラの重装騎兵を破り、パルミラの町を包囲した。ゼノビアはラクダでユーフラテス川の方へ逃れ、ペルシアの助けを求めようとしたが、川を渡る直前に捕らえられた。町は降伏し、アウレリアヌスはロンギノスら側近を処刑したが、町そのものは許した。
ところが翌273年、パルミラの人々は再び背いた。アウレリアヌスは引き返して町を攻め落とし、今度は容赦しなかった。町は略奪され、隊商都市としての繁栄はここで終わる。274年、アウレリアヌスはガリアも取り戻し、帝国を再び一つにまとめた(アウレリアヌスの帝国再統一)。

ゼノビアのその後については、古代の記録が分かれる。ある記録は、彼女がアウレリアヌスの凱旋式で金の鎖につながれて引き回され、その後はローマ近郊のティブルの屋敷で余生を送り、ローマの貴族と結婚したと書く。別の記録は、ローマへ送られる途中で病死した、あるいは食を断って死んだと書く。どちらが正しいかは分からない。
パルミラの遺跡は、列柱の大通りや神殿、墓の塔とともに、20世紀には中東を代表する遺跡の一つになった。しかし2015年、シリアの内戦の中でこの地を占領した過激派組織が、ベル神殿などを爆破した。長年遺跡を守ってきた考古学者ハーリド・アル=アスアドは、財宝の在りかを明かさなかったとして殺害された。ゼノビアは今もシリアで抵抗の象徴として語られ、紙幣にも肖像が描かれてきた。