人物

春日局

Kasuga no Tsubone
AD1579年 – AD1643年10月26日(享年64・推定)
江戸幕府重要度 4

概要

明智光秀の家老、斎藤利三の娘。父は山崎のあと斬首。稲葉正成と結婚し、離縁して家光の乳母に。家光が跡継ぎになるように駿府へ行って家康に会った、と伝える。大奥の制度を作った。伊勢参りの名目で上洛して天皇に拝謁し、春日局の名を賜った。家光が病むと自分は薬を断つと誓って、薬を飲まずに死んだ。

本文

1579年に生まれた。名は福。父の斎藤利三は明智光秀の重臣で、丹波の黒井城を預かっていた。母は美濃の稲葉家の出とされる。福が3歳の1582年、光秀は本能寺で織田信長を討ち、わずか11日後に山崎で羽柴秀吉に敗れた(山崎の戦い)。父の利三は逃れたものの近江で捕らえられ、京の六条河原で斬られ、首はさらされた。謀反人の娘になった福は、母とともに親類を頼って身を隠すように育った。

福を引き取ったのは母方の稲葉家だった。京で公家の三条西家に出入りし、和歌や書などの教養を身につけたとも伝えられる。のちに公家の世界と渡り合う素地は、このころに作られたのかもしれない。やがて親類の稲葉正成の後妻になった。正成は小早川秀秋の家老で、1600年の関ヶ原の戦い(関ヶ原の戦い)では、主君の秀秋を東軍に寝返らせる働きをしたとされる人物である。福は正成との間に男子を産んだ。

関ヶ原の戦いに関わる図版:Sekigaharascreen
関ヶ原の戦いWikimedia Commons User LordAmeth on en.wikipedia Collection of The Town of Sekigahara Archive of History and Cultural Anthropology · Public domain

1604年、2代将軍徳川秀忠と正室の江の間に、男子の竹千代が生まれた。のちの3代将軍徳川家光である。福はその乳母に選ばれた。京の粟田口に立てられた乳母募集の高札を見て名乗り出た、という話が伝わるが、確かではない。乳母になるにあたって、福は夫の正成と離縁した。26歳だった。謀反人の娘が将軍家の跡継ぎを育てる立場になったのである。

竹千代は体が弱く、口数の少ない子だった。2年後に生まれた弟の国松(のちの忠長)は利発で、両親は国松をかわいがった。家臣たちの間にも、跡継ぎは国松ではないかという空気が広がったという。福は伊勢参りを口実に江戸を出て、駿府に隠居していた徳川家康に会い、竹千代の立場を訴えた。家康は江戸に来て、兄の竹千代を上座に、弟の国松を下座に置いて菓子を与え、跡継ぎは長子だと皆に示した。よく知られたこの話は後の時代の記録に見えるもので、どこまで事実かは分からない。ただ、長子が家を継ぐという決まりが徳川家で固まり、竹千代が跡継ぎになったことは確かである。

春日局の肖像
春日局の肖像Wikimedia Commons 投稿者が作成 · Public domain

1623年、家光は3代将軍になった。福は江戸城の奥向きを取り仕切るようになる。将軍の妻や側室、そこに仕える女性たちが暮らす大奥の制度は、秀忠の時代から形を取り始めていたが、出入りの決まりや女性たちの役職を整え、男子禁制の空間として固めたのは福の時代だとされる。家光は男色を好み、正室との仲も悪く、なかなか子ができなかった。将軍家の血が絶えることを恐れた福は、家光の好みに合いそうな女性を探して大奥に入れたと伝えられる。のちに4代将軍家綱、5代将軍徳川綱吉が生まれたのは、その結果でもあった。

1629年、福は京に上り、宮中に参内して後水尾天皇に拝謁した。官位を持たない武家の女性が天皇に会うことはできないので、公家の三条西実条の義理の妹という形をとった。このとき春日局の名を賜った。だが、幕府の乳母が身分を借りて宮中に入ったことは、朝廷の側に強い不快感を残した。その頃、幕府は天皇が僧に与えた紫の衣の許しを取り消させ、抗議した僧たちを流罪にしていた。後水尾天皇はこの年の暮れ、幕府に知らせないまま突然、娘の明正天皇に位を譲った。春日局の参内も、その引き金の一つだったと言われる。

『古今名婦鏡』より、強盗と戦う春日局(安達吟光画、1880年頃)
『古今名婦鏡』より、強盗と戦う春日局(安達吟光画、1880年頃)Wikimedia Commons Adachi Ginkō · Public domain

春日局は家光の厚い信頼を背景に、幕府の中でも大きな発言力を持った。離縁した夫との子の稲葉正勝は家光の側近となり、老中に上って相模の小田原城主になった。春日局の縁につながる人々は、幕府の要職に引き立てられた。

その家光への献身ぶりを示す話がある。家光が若い頃に疱瘡(天然痘)にかかって重くなったとき、春日局は、自分は一生薬を飲まないので将軍を助けてほしいと神仏に誓った。家光は回復した。1643年、春日局が病に倒れると、彼女は誓いを守って薬を拒んだ。見舞いに来た家光が自ら薬を勧めると、口に含んだだけで飲み込まず、そっと吐き出したと伝えられる。この年の9月(新暦10月26日)、春日局は亡くなった。65歳だった。墓は江戸の湯島に建てた麟祥院にある。

春日局が整えた大奥は、その後200年あまり、将軍の跡継ぎを生み育てる場として幕府の政治にも影を落とし続けた。明治以降、春日局は乳母の忠義と、大奥を支配した女性の権勢の両方を象徴する名になり、小説やドラマに繰り返し描かれてきた。謀反人の娘として生まれ、将軍の育ての母として生涯を終えた人だった。

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