サティーの禁止
概要
寡婦を夫の火葬の火に投じる慣習が法で禁じられた。外から野蛮だと言うのではなく、ヒンドゥーの経典がそれを求めていないと内側から論証する運動が先にあった。
場所
22.57°N 88.36°E · インド・西ベンガル州
関わった人(1)
ラーム・モーハン・ローイAD1772年5月22日–AD1833年9月27日 · 論証と運動本文
夫が亡くなると、その妻が火葬の薪の上に上がり、夫の遺体とともに焼かれて死ぬ。インドでサティーと呼ばれた慣習である。サティーとはもともと「貞淑な妻」を意味する言葉で、夫に殉じた女性は女神のようにあがめられ、その場所に記念の石が立てられることもあった。古くから記録に残るが、どこでもいつでも行われたわけではない。地域と時代、身分によって大きな違いがあり、多くは一部の地方の、一部の家に限られていた。
この慣習をやめさせようとした支配者は、以前からいた。ムガル帝国の成立の後、16世紀の後半に帝国を広げた皇帝アクバルは、本人の意思に反するサティーを禁じ、役人の許可を求めるようにしたと伝えられる。ゴアを征服したポルトガルは、16世紀の初めにこれを禁じている。

18世紀の後半からベンガルを支配したイギリス東インド会社は、長く手を出さなかった。インドの人々の宗教や慣習に口を出せば反乱を招き、商売と統治の妨げになる、と恐れたからだ。1813年には、強制されたものでなく、決まった年齢と条件を満たしたサティーだけを認める、という規則を作った。ところが役人が立ち会って「正しい」サティーを認めるこの仕組みは、かえって慣習にお墨付きを与える結果になった。記録によれば、ベンガルの管区では1815年から1828年までに8000件を超えるサティーが届け出られ、多い年には800件を上回った。カルカッタの周りでとくに多かった。
この慣習に、ヒンドゥーの内側から立ち向かったのが、ラーム・モーハン・ローイ(ラーム・モーハン・ローイ)だった。1772年にベンガルの裕福なバラモンの家に生まれ、サンスクリット語、ペルシア語、アラビア語を学び、のちに英語も身につけた。東インド会社に勤めて財を成したあと、カルカッタに住んで宗教と社会の改革に取り組んだ。兄が亡くなったとき、その妻がサティーで焼かれるのを目の当たりにしたことが、彼を動かしたと伝えられるが、確かな記録があるわけではない。

ローイの方法は、西洋の価値観を掲げて外から非難することではなかった。彼はヒンドゥー教の聖典を自分で読み込み、ベンガル語と英語でパンフレットを書いた。1818年に出した最初の小冊子は、サティーを擁護する者と反対する者の問答の形をとっている。最も古いヴェーダにも、権威ある法典として知られるマヌの法典にも、寡婦が夫と一緒に焼かれなければならないという定めはない。マヌの法典はむしろ、夫を亡くした妻は身を慎み、清らかに生きるよう説いている。サティーは聖典が命じるものではなく、財産を相続させたくない親族の思惑や、女性を軽んじる習わしが生んだものだ、とローイは論じた。
ローイはさらに、火葬の場に出向いて女性を思いとどまらせようとし、仲間とともにサティーの禁止を求める請願書を集めた。これに対して、保守的なヒンドゥーの人々も、慣習を守るための請願を出した。論争は、聖典をどう読むかという形で戦わされた。
1828年、ウィリアム・ベンティンクがベンガル総督としてカルカッタに着任した。ベンティンクは、軍の幹部や裁判官たちに、禁止すれば兵士が反乱を起こすかどうかを問い合わせ、大きな危険はないと判断した。そして1829年12月4日、サティーを犯罪とする規則を定めた。寡婦を焼くことに手を貸した者は、殺人として罰せられる。翌年には、マドラスとボンベイの管区にも同じ規則が広げられた。
保守派の人々は「ダルマ・サバー(法の会)」という団体を作り、禁止の撤回を求めてイギリス本国の枢密院に訴え出た。ローイは1830年、名目だけになっていたムガル皇帝の使節としてイギリスに渡り、本国の議会や政府に働きかけた。1832年、枢密院は保守派の訴えを退けた。ローイはそのままイギリスに残り、1833年9月、ブリストルで病に倒れて亡くなった。その墓は今もブリストルにある。
禁止のあとも、サティーが一夜にして消えたわけではない。とくにイギリスの直接の支配が及ばない藩王国では、その後も行われた。寡婦の再婚を認める法ができたのは1856年で、それを推し進めたのは、やはりベンガルの改革者たちだった。翌1857年のインド大反乱の背景には、イギリスが宗教や慣習に手を入れることへの反発もあったと言われる。

この出来事は、のちの時代にさまざまに読まれてきた。イギリスの側は、野蛮な慣習から女性を救ったことを、自分たちの支配の正しさの証として語った。インドの側では、ローイは近代インドの父として記憶されている。一方で、近年の研究者は、論争のすべてがイギリス人役人とインドの男性学者のあいだで、聖典の解釈をめぐって行われ、焼かれる女性たち自身の声はほとんど記録されなかったことを指摘している。1987年にはラージャスターンで若い寡婦が夫の火葬の火で死ぬ事件が起き、インド政府はサティーとその美化を禁じる法をあらためて定めた。