マララの銃撃

概要
女子が学校へ行く権利を書きつづけた15歳が、下校のバスで頭を撃たれた。生き延び、2年後に史上最年少でノーベル平和賞を受ける。
場所
34.77°N 72.36°E · パキスタン・ハイバル・パフトゥンハー州スワート
関わった人(1)
マララ・ユスフザイAD1997年7月12日–? · 撃たれた本文
マララ・ユスフザイは、1997年にパキスタン北西部のスワート渓谷の町ミンゴラで生まれた。父のジアウッディンは小さな私立学校を経営する教育者で、娘にも息子と同じように学ぶことを勧めた。スワートは緑の山々と川に囲まれ、かつては観光地として知られた土地だった。
パキスタン・タリバン運動は、2007年にパキスタン北西部の武装勢力が集まって作った組織である。隣国アフガニスタンでかつて政権を握り、バーミヤンの大仏を爆破したタリバンと考えを同じくし、国境の山岳地帯を拠点に、パキスタン政府と戦っていた。

2007年ごろから、渓谷にパキスタン・タリバン運動の勢力が入り込んだ。ラジオで説教を流した指導者ファズルッラーのもとで、彼らは音楽やテレビを禁じ、女性が市場に出ることを禁じ、従わない者を広場で殺してさらした。女子の学校は次々に爆破された。2009年の初め、彼らは女子が学校へ通うことを全面的に禁じると宣言した。
そのころ、イギリスの放送局BBCのウルドゥー語版が、タリバン支配下の暮らしを書いてくれる生徒を探していた。父の紹介で、11歳のマララがその役を引き受けた。筆名はグル・マカイ。爆撃の音で眠れない夜のこと、制服を着ずに私服で学校へ通うよう言われたこと、学校が閉じられる日の悲しさを書いた。日記は評判になった。

2009年春、パキスタン軍がスワートで大規模な作戦を行い、タリバンを渓谷から追い出した。一家も一時は避難を強いられた。学校が再開されると、マララは名前を出して、女子の教育を受ける権利を訴えるようになった。テレビに出て話し、国内で平和賞を受け、国際的な子どもの平和賞の候補にもなった。タリバンは彼女を名指しで脅した。
2012年10月9日の昼、下校のスクールバスが止められた。男が乗り込んできて「マララは誰だ」と聞き、彼女の頭を撃った。弾は左の額のあたりから入り、首から肩へ抜けた。一緒にいた二人の女子生徒も撃たれて傷を負った。パキスタン・タリバン運動は犯行を認め、彼女が生き延びればまた狙うと声明を出した。

マララは軍の病院で手術を受けたのち、イギリスのバーミンガムの病院へ運ばれた。意識が戻るまでに数日かかり、頭蓋骨の一部を補う手術や、耳の治療も受けた。事件は世界中で報じられ、パキスタン国内でも、女子の教育を求める声と、タリバンへの怒りが広がった。
9か月後の2013年7月12日、16歳の誕生日に、彼女はニューヨークの国連本部で演説した。テロリストは銃弾で私たちを黙らせようとしたが、失敗した。弱さと恐れと絶望が死に、強さと力と勇気が生まれた。そして、一人の子ども、一人の教師、一冊の本、一本のペンが世界を変えられる、と語った。

2014年、マララはインドで児童労働と闘ってきたカイラシュ・サティヤルティとともに、ノーベル平和賞を受けた(ノーベル賞の始まり)。17歳での受賞は、史上最年少である。父と立ち上げた基金は、女子が12年間の教育を受けられるよう、各地の活動を支えている。彼女自身はイギリスで学業を続け、2020年にオックスフォード大学を卒業した。
事件のあと、犯行に関わったとして十数人が捕らえられたが、撃った男とされる人物は国境を越えて逃れたとされ、裁かれていない。2015年には10人に有罪判決が出たと報じられたが、そのうち8人が実はひそかに無罪となっていたことが後に分かり、批判を浴びた。スワートを支配したファズルッラーは、のちにパキスタン・タリバン運動の最高指導者になり、2018年にアフガニスタンで米軍の無人機の攻撃を受けて死んだ。

パキスタン国内での評価は、一様ではない。国の名誉を高めた英雄として称える人がいる一方で、西洋に利用されている、国の恥を外にさらしたと非難する声も根強い。2018年に事件後初めて故郷を訪れたときも、警備は厳重だった。
隣のアフガニスタンでは、2021年にタリバンが政権に戻り(タリバンの復権)、女子が中学校以上で学ぶことを再び禁じた。マララはこの措置を強く批判し、各国に圧力を求め続けている。撃たれた日から10年以上たっても、彼女が訴えていることは過去の話になっていない。