ワイカトの徴兵拒否
概要
第一次大戦の徴兵に、マオリの王家の血を引く女性が拒否を呼びかけた。19世紀に土地を没収されたままの国のために、なぜ死ぬのか、と。
場所
-41.29°N 174.78°E · ニュージーランド
関わった人(1)
テ・プエア・ヘランギAD1883年11月9日–AD1952年10月12日 · 呼びかけ本文
1858年、ニュージーランドの北島で、マオリの諸部族の長たちが、ワイカト地方の首長ポタタウ・テ・ウェロウェロを王に推した。白人の入植者が増え、土地が次々に売られていく中で、マオリの土地と暮らしを守るための王である。キンギタンガ(王の運動)と呼ばれる。1840年のワイタンギ条約から、20年もたっていなかった。
政府はこれを、植民地の支配への挑戦と見た。1863年、政府軍がワイカトに攻め込み、激しい戦いの末、マオリ側は敗れた(ニュージーランド戦争)。戦いのあと、政府は「反乱」の罰として、ワイカトの肥えた土地およそ48万ヘクタールを没収した。人びとは先祖の土地を追われ、王の一族は南の山地に逃れた。

テ・プエア・ヘランギは、1883年に生まれた(テ・プエア・ヘランギ)。母は2代目の王タウィアオの娘で、テ・プエアは王の孫にあたる。若いころは、白人の社会に近づき、自分の民の暮らしから離れていた時期もあった。だが20代の終わり、病に倒れた母を看取ったのちに、ワイカトの人びとの中に戻り、その指導者として頭角を現していった。
1914年、第一次世界大戦が始まった。イギリスの自治領だったニュージーランドは、多くの兵をヨーロッパや中東に送った。マオリからも志願兵の部隊が作られ、ガリポリの戦いでも戦った。だがワイカトの人びとは、志願しなかった。

理由ははっきりしていた。半世紀前、王の国は政府に土地を奪われ、その土地はまだ返されていない。土地を奪った国の王のために、なぜ自分たちの若者が死ななければならないのか。さらに、王タウィアオは晩年、二度と武器を取って戦ってはならないと民に言い残していたとされる。テ・プエアは、その言葉に従うことを選んだ。
1916年、政府は兵が足りなくなって徴兵制を敷いた。翌1917年6月、徴兵はマオリにも及ぼされることになった。だが実際に徴兵の抽選がかけられたのは、ワイカトと隣のマニアポトの部族だけだった。志願しない部族への、事実上の罰だった。

テ・プエアは、若者たちに徴兵に応じないよう呼びかけ、自分の拠点であるマーサー近くのテ・パイナの集落に彼らを集めた。1918年、警察が集落に入り、若者たちを連行した。テ・プエアも、集まった人びとも抵抗しなかった。連れて行かれた若者たちは軍の営舎に入れられ、軍服を着ることを拒んで、粗末な食事と重い罰を科された。十数人が刑務所に送られた。新聞や白人の社会は、彼らを裏切り者と非難した。
同じ年の11月に戦争は終わり、ワイカトの若者たちが戦場に送られることはなかった。だが、その直後に別の災いが来た。世界中に広がっていたインフルエンザ(スペイン風邪)が、ニュージーランドにも上陸したのである。マオリの死亡率は白人の何倍にも達した。テ・プエアは病人を集めて看護し、親を失った子どもたちを引き取った。その数は100人に及んだという。

戦後、テ・プエアは人びとを率いて、ワイカト川のほとりのンガールアワーヒアに移り、湿った荒れ地を自分たちの手で切り開いた。そこに、王の運動の中心となる集会所の地、トゥーランガワエワエを築いた。マオリの言葉で「足を立てる場所」を意味する。歌と踊りの一座を作って各地を回り、その収入で建物を建て、牛を飼い、畑を作った。のちには政府の大臣アーピラナ・ンガタと手を組み、マオリの土地を開発する事業も進めた。1940年の建国100年の行事に向けて、伝統の大きな戦闘用カヌーを作らせたのも彼女である。
1937年、テ・プエアは英国王から勲章を授けられた。かつて徴兵を拒んで非難された女性が、国の功労者として認められたのである。彼女は1952年に死んだ。

ワイカトの人びとが求め続けた土地の問題に、政府が正式に答えたのは、1995年のことである。政府はワイカトの部族と和解の協定を結び、没収が不当だったことを認めて、国の名で謝罪し、一部の土地と補償金を返した。協定には、英国の女王自身が署名した。テ・プエアがその日を見ることはなかったが、彼女が守ろうとした人びとの子孫が、その場に立っていた。