人物

与謝野晶子

Yosano Akiko
AD1878年12月7日 – AD1942年5月29日(享年63)
日本重要度 4

概要

堺の菓子屋の娘。与謝野鉄幹と恋をして家を出て、『みだれ髪』。子を13人産み、『源氏物語』を現代語にし、女性の参政権を言い、「君死にたまふことなかれ」を書いた同じ人が、日中戦争を讃える詩も書いた。

所属

日本

関わったできごと(1)

与謝野晶子『みだれ髪』AD1901年8月15日 · 歌人

本文

与謝野晶子は1878年12月7日、大阪の堺の老舗の和菓子屋、駿河屋の娘として生まれた。本名は鳳志よう。男の子を望んでいた父に喜ばれず、幼いころは他家に預けられたこともあったと伝えられる。やがて店番をしながら家の蔵の書物を読みあさり、少女のうちに『源氏物語』をはじめとする古典に親しんだ。

若き日の与謝野晶子
若き日の与謝野晶子Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1900年、東京で与謝野鉄幹が主宰する詩歌の雑誌『明星』が創刊されると、晶子は歌を寄せ始めた。その夏、鉄幹が関西を訪れたとき、晶子は彼に会い、やがて激しい恋に落ちた。鉄幹には妻がいた。同じく鉄幹を慕った歌人の山川登美子は、親の決めた結婚に従って身を引いた。晶子は1901年6月、家を捨てて東京の鉄幹のもとへ走った。

その年の8月に出た第一歌集『みだれ髪』(与謝野晶子『みだれ髪』)は、世間を驚かせた。若い女が、自らの恋と体と情熱を、何のためらいもなく歌い上げていたからである。ふしだらだと非難する声も強かったが、若い読者たちは熱狂した。10月、晶子は鉄幹と結婚し、与謝野晶子となった。その後の二人の暮らしは楽ではなかった。鉄幹の名声が衰えていく中で、家計を支えたのは晶子の筆だった。彼女は生涯に13人の子を産み、11人を育て上げながら、歌を詠み、文章を書き続けた。

与謝野晶子『みだれ髪』に関わる図版:Akiko Yosano MIDAREGAMI
与謝野晶子『みだれ髪』Wikimedia Commons Akiko Yosano(1878-1942); illustration by Takeji Fujisima (1867-1943) · Public domain

1904年9月、日露戦争のさなか、晶子は『明星』に「君死にたまふことなかれ」を発表した。旅順を囲む軍の中にいる弟に向けて、親は人を殺せと教えて育てたのではない、死なないでくれ、と呼びかけた長い詩である(旅順攻囲戦)。天皇は自ら戦いに出ることはない、という一節まであり、評論家の大町桂月らから、国家に背く危険な思想だと激しく攻撃された。晶子は、まことの心を歌うのが歌だ、と言い返した。

晶子の関心は、歌にとどまらなかった。1911年、平塚らいてうらが女性だけの文芸誌『青鞜』を創刊すると(『青鞜』の創刊)、晶子は創刊号に、山の動く日が来る、眠っていた女たちがいま目覚めて動き出す、とうたう詩を寄せた。1912年には、先にパリへ渡っていた鉄幹を追って、子どもたちを日本に残し、ひとりシベリア鉄道で(シベリア鉄道の開通)ヨーロッパへ向かった。パリでは彫刻家ロダンにも会い、半年ほどの滞在の後、船で帰国した。

生家跡(大阪府堺市堺区甲斐町西一丁)[注釈 1]
生家跡(大阪府堺市堺区甲斐町西一丁)[注釈 1]Wikimedia Commons 663highland · CC BY 2.5

大正時代、晶子は評論でも健筆をふるった。1918年には、平塚らいてうとの間で、いわゆる母性保護論争が起きた。らいてうが、子を産み育てる母は国家に保護されるべきだと説いたのに対し、晶子は、女性は国家や男に頼らず、経済的に自立すべきだと主張した。女性の参政権や教育の機会の平等も繰り返し訴えた。1921年には、建築家の西村伊作らとともに、東京に文化学院を開いた。男女が共に学ぶ、自由な校風の学校だった。

生涯の仕事の一つが、『源氏物語』の現代語訳である。1912年から翌年にかけて最初の訳を出したが、その後、改めて取り組んでいた訳の原稿は、1923年の関東大震災で文化学院とともに焼けてしまった。晶子は諦めず、20年近くをかけて訳し直し、1938年から翌年にかけて『新新訳源氏物語』を完成させた。

『源氏物語』に関わる図版:Genji emaki 01003 002
『源氏物語』Wikimedia Commons Imperial Palace Kyoto · Public domain

晩年の晶子には、別の顔も見える。満洲事変の後、日本が戦争へ進む中で、晶子は戦いをたたえ、兵士を励ます歌や詩も書いた。1942年には、海軍の士官として出征する四男に向けて、勇ましく戦えと詠んだ歌を残している。「君死にたまふことなかれ」の詩人が、なぜ戦争をたたえる歌を詠んだのか。時代の空気に呑まれたのだと見る人もいれば、もともと国を愛する心と家族を思う心が同居していたのだと見る人もいる。

1935年に夫の鉄幹に先立たれ、1940年に脳溢血で倒れた晶子は、太平洋戦争のさなかの1942年5月29日、東京で63歳で亡くなった。生涯に詠んだ歌は5万首にのぼるとも言われる。情熱の歌人、女性の自立を説いた評論家、古典の翻訳者、そして戦争の時代を生きた母。その一つ一つが、晶子という一人の人の中に重なっている。

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