概要
メネリク2世の皇后。アドワでは自分の兵5000を率い、イタリア軍の水源を断つ作戦を進言した。ウッチャリ条約のイタリア語版の詐術に最も強く反対した。アディスアベバ(「新しい花」)の名をつけ、都の場所を選んだ。1907年、メネリクが病に倒れると事実上の支配者になり、1910年に貴族に追われて修道院に退いた。
所属
エチオピア帝国関わったできごと(1)
アドワの戦いAD1896年3月1日 · 陣を張った本文
1851年頃、ゴンダール近くのイェジュの貴族の家。ソロモン朝の血を引く、と主張できる家系。4回結婚して離婚し、1883年、シェワの王メネリク(後の皇帝メネリク2世)と5度目の結婚をした。教会法に基づく、離婚できない婚姻を結んだ(政治的に重い意味があった)。
読み書きができ、アムハラ語の詩(キネ、二重の意味を持つ宗教詩)を作れた。当時のエチオピアの宮廷で、それは学識の証だった。
1889年、メネリクが皇帝になり、タイトゥは「イテゲ(皇后)」として戴冠した。自分の宮廷と、自分の収入源(土地)と、自分の兵(後に5000人)を持った。
新しい都。1886年、メネリクが軍を進める間、タイトゥはエントット山の南の温泉(フィルウォハ)のある地を気に入って、そこに住むことを望んだ。彼女がその場所に「アディス・アベバ(新しい花)」と名づけた。1889年、都になった。水が足りず、木がなく、都を移す話が出たとき、オーストラリアのユーカリを大量に植えることで解決した(いまもアディスアベバはユーカリの木が多い)。
ウッチャリ条約(1889年)。イタリアと結んだ友好通商条約。第17条。アムハラ語版は「エチオピア皇帝は、対外関係において、イタリア政府の仲介を用いることができる」。イタリア語版は「用いなければならない(si serve)」。イタリアは後者を根拠に、列強に「エチオピアは保護国である」と通告した。
タイトゥは強硬に反対した。イタリアの使節との交渉の席で、彼女は言った、と記録されている。「我々は、我々の国が、他国の保護の下にあると言われることを、決して受け入れません。あなた方が、あなた方の国について、そう言われることを受け入れないのと同じように。それは、女にも、名誉があるからです」。
1893年、メネリクが条約を破棄した。1895年、戦争。
1896年3月1日、アドワ。タイトゥは自分の兵5000(うち銃を持つ者3000、騎兵600)を率いて、戦場にいた。彼女の陣は、聖マリアの旗の下にあった。その前、包囲したイタリア軍の砦(メケレ)の水源を断つ作戦を進言して、成功させた(砦は10日で降伏した)。戦闘の日、彼女は後方で、女たちを組織して、水を運ばせ、負傷者を運ばせた。
戦後。彼女は、フランスとイギリスとイタリアの利権の要求に、最も強く抵抗した。鉄道の敷設権(フランス)に反対した。「彼らは、鉄道を敷いた後、それを守るための兵を求めるでしょう」。
1906年、メネリクが脳卒中で倒れた。タイトゥが事実上の統治者になった。人事を自分の一族で固めた、と貴族が不満を持った。1910年3月、貴族と大臣が結束して、彼女を政治から退けた。夫の看護だけを許された。1913年、メネリクが死んだ。彼女はエントットの教会の隣に退いて、1918年2月11日に死んだ。
彼女とメネリクは、エントットの聖マリア教会に、並んで葬られている。