ラデン・アジェン・カルティニ
概要
貴族の娘として12歳で家に閉じ込められ、手紙で外の世界と議論しつづけた。その書簡集がインドネシアの女子教育を動かす。
関わったできごと(1)
カルティニの書簡AD1911年(書簡集の出版) · 書き手本文
1879年4月、オランダ領東インドのジャワ島中部、北海岸の町ジュパラの近くで生まれた。父のソスロニングラットは、オランダの植民地政府の下で地方を治めるジャワ人の貴族の官僚で、のちにジュパラの県令になった。母のガシナは、イスラームの学者の家の出だが貴族ではなく、父の正妻ではなかった。父は県令になる条件として、貴族の家から正妻を迎えねばならず、カルティニは生母と同じ家で暮らしながら、その母を「お母さま」と呼べない立場で育った。名前の「ラデン・アジェン」は、未婚の貴族の娘につく称号である。

父は当時のジャワの貴族としては開明的な人で、娘たちにもオランダ語の小学校へ通うことを許した。オランダ人や一部の現地の上層の子どもが通う学校で、カルティニはそこでオランダ語を身につけ、ヨーロッパの本を読む力を得た。兄の一人はのちにオランダに留学し、言語学者として知られるようになる。
だが12歳のとき、学校は終わった。ジャワの貴族の娘は、年ごろになると家の奥に閉じこもり、結婚相手が決まるまで外へ出ない慣わしがあった。カルティニはこれをピンギタン(閉じ込め)と呼んでいる。もっと学校に通いたいと父に頼んだが、許されなかった。それから数年、彼女は屋敷の塀の内側で暮らした。

閉じ込められた彼女の窓になったのが、本と手紙だった。オランダ語の新聞や雑誌、小説を取り寄せて読み、オランダの女性運動や社会主義の思想に触れた。やがて妹たちとともに少しずつ外出を許されるようになると、オランダの雑誌に投書した縁から、文通の相手が広がっていく。オランダの若い社会主義者でフェミニストのステラ・ゼーハンデラール、植民地政府の教育局長だったアベンダノンとその妻ローザらである。
手紙の中で、カルティニは遠慮なく書いた。女性が教育を受けられないこと、親が決めた相手と結婚させられること、男性が何人もの妻を持てること。身分の上下を絶対とするジャワの貴族社会の作法、目下の者が地面を這うようにして目上の者に近づく習わしへの嫌悪。そして、ジャワの人びとを無知のままにしておく植民地の統治そのものへの疑問。同時に、ジャワの伝統文化や工芸を愛し、西洋の何もかもを良いとするわけではないとも書いている。自分よりずっと恵まれない同胞の女性たちのために何ができるかを、彼女は繰り返し問い続けた。
その声は、当時のオランダの空気とも響き合った。19世紀にジャワの農民に作物を強制的に作らせて本国が大きな利益を上げた強制栽培制度(ジャワの強制栽培制度)への批判から、1901年、オランダ政府は植民地の人びとの福祉と教育に責任を持つという「倫理政策」を打ち出していた。アベンダノンはその担い手の一人で、カルティニの手紙に強い関心を寄せた。
カルティニの夢は、教師になる訓練を受けて、ジャワの貴族の娘たちのための学校を開くことだった。オランダへ留学するための奨学金の話も持ち上がり、一度は許可も出た。だが、アベンダノンらに、留学すればジャワの社会から浮き上がり、かえって目的が遠のくと説得され、彼女は留学をあきらめた。
1903年11月、24歳のカルティニは、父の決めた相手と結婚した。相手は近くのレンバンの県令で、すでに三人の妻と何人もの子どもがいた。手紙で一夫多妻を厳しく批判してきた彼女にとって、受け入れがたい結婚だったはずである。ただ、夫は開明的な人で、彼女が学校を開くことを認めた。カルティニは県令の屋敷の一角で、少女たちのための小さな学校を始めた。
1904年9月、彼女は男の子を産んだ。その4日後、25歳で死んだ。死因ははっきりしない。
1911年、アベンダノンは、カルティニの手紙を選んで編集し、オランダで出版した(カルティニの書簡)。題は『闇を越えて光へ』。本は評判を呼び、その収益や寄付をもとに、ジャワ各地に「カルティニ学校」と呼ばれる女子のための学校が作られていった。インドネシア語にも訳され、独立運動の世代の人びとにも読まれた。
1945年の独立(インドネシア独立宣言)の後、1964年、スカルノ大統領はカルティニを国家英雄に定め、彼女の誕生日の4月21日は「カルティニの日」になった。いまもこの日には、女の子たちが民族衣装を着て学校へ行き、彼女の名を冠した歌が歌われる。

一方で、議論もある。出版された書簡集は、アベンダノンが倫理政策の宣伝に役立つ部分を選び、都合の悪い部分を削ったものだという指摘があり、のちに省かれた手紙を含む全集も出された。また、ジャワ島の貴族の娘だけが国の女性解放の象徴とされることに対して、ほかの島で同じ時代に女性の教育に尽くした人びとも同じように讃えるべきだという声もある。25年の短い生涯で、彼女が残したのは学校一つと手紙の束だったが、その手紙が、一つの国の女性たちの歴史の出発点として読まれ続けている。