概要
19世紀の半ば、上流と中流の女性の服は、何枚も重ねたペチコートで膨らませた床までのスカートと、体を締めつけるコルセットだった。1851年、ニューヨーク州セネカ・フォールズで女性の権利の新聞を出していたアメリア・ブルーマーは、膝下までのスカートの下にゆったりしたズボンをはく服を紙面で勧め、自らも着た。人々はこの服を「ブルーマー」と呼んだ。女性の権利の運動家たちが着たが、男の服を着たがる女と嘲笑され、数年で多くが手放した。この服が広まるのは、40年後の自転車の流行のときだった。
場所
42.91°N -76.80°E · アメリカ合衆国・ニューヨーク州
本文
19世紀の半ばの欧米の上流と中流の女性は、鯨のひげや鋼の骨で作ったコルセットで胴を締め、何枚ものペチコートを重ねて、床まで届くスカートを膨らませていた。服の重さは何キロにもなった。息は苦しく、裾は道の泥を引きずり、階段の上り下りにも難儀した。医者の中には、コルセットが内臓を傷めると警告する人もいた。
1848年、ニューヨーク州セネカ・フォールズで、女性の権利を求める最初の大会が開かれた(セネカ・フォールズ会議)。この町に住むアメリア・ブルーマーは、女性の禁酒と権利を訴える新聞『リリー』を出していた。1851年、運動家エリザベス・ケイディ・スタントンの従妹エリザベス・スミス・ミラーが、トルコの女性の服を手本にした、膝下までのスカートの下にゆったりしたズボンをはく服を着て、町にやってきた。スタントンもすぐにこの服を作らせた。
ブルーマーは、この服を自分の新聞で紹介し、型紙も載せて、女性たちに勧めた。読者から問い合わせが殺到し、新聞の部数は大きく伸びた。新聞各紙はこの服を、ブルーマーの名をとって「ブルーマー」と呼んだ。動きやすく、健康によく、女性を重い服から解き放つ服だった。
だが、世間の反応は厳しかった。ズボンは男の着るものであり、ズボンをはく女は男になりたがっている、家庭を捨てる気だと嘲られた。漫画は、ズボンをはいた女と、家で赤ん坊をあやす夫を描いて笑った。ブルーマーの服で外を歩けば、子どもたちに囃し立てられ、石を投げられることもあった。運動家たちは、服への嘲笑が女性の権利という肝心の主張から人々の目をそらしてしまうことを恐れ、1850年代の半ばには、多くがこの服を手放した。
服の改革の考えは消えなかった。40年後の1890年代、自転車の大流行(安全型自転車の登場)のなかで、女性たちは自転車に乗るためにゆったりしたズボンをはき始め、それは再び「ブルーマー」と呼ばれた。日本では、のちに女子の体育の服の名として「ブルマー」という言葉が残った。