糸車
概要
繊維を引き出しながら撚りをかけ、巻き取る。手回しの錘だけでやると、極端に遅い。人類が費やしてきた労働時間のうち、糸を紡ぐことに使われた分は膨大で、そのほとんどを女性が担った。車輪で錘を回す装置が、中国とインドで先に現れ、13世紀にヨーロッパへ届く。生産量が数倍になった。同じ道具が、二十世紀にガンディーの手の中で、独立運動の象徴になる。インドの国旗の中央にある輪は、もとはこの車である。
場所
28.61°N 77.21°E · インド
本文
糸を紡ぐとは、繊維のかたまりから少しずつ繊維を引き出しながら撚りをかけ、巻き取っていく作業である。撚りが要るのは、繊維が短いからだ。綿なら2〜3センチ、羊毛でも5〜15センチほどしかない。そのままでは引っ張れば抜けてしまうが、撚ると繊維どうしが締め付け合い、摩擦で抜けなくなる。こうして短い繊維が、どこまでも続く一本の糸になる。
人類は新石器時代から、紡錘でこれをしてきた。一本の棒に紡輪と呼ばれる円盤の錘を付け、指でひねって回しながら垂らし、繊維を少しずつ送り出す。紡輪は世界中の遺跡から大量に出てくる、最もありふれた出土品の一つである。熟練した人でも、1日に紡げる糸は数百メートルから千メートルほどにすぎない。布を一枚織るには、その何倍もの糸が要った。

布を作る手間のうち、圧倒的に時間がかかったのは、織ることよりも紡ぐことだった。中世のヨーロッパで一人分の衣服の布をそろえるには、紡ぐだけで数百時間かかったという推計もある。その仕事のほとんどを女性が担った。紡錘は持ち運べるので、子どもを見ながら、煮炊きの合間に、歩きながら、暮らしのあらゆる隙間で紡いだ。英語で未婚の女性を指す古い言葉「スピンスター」は、もともと「紡ぐ女」の意味である。独り身の女性が自分で稼げる数少ない仕事が、糸紡ぎだったからだ。紡ぐ前の繊維を巻き付けておく棒を英語で「ディスタフ」と言い、母方の家系を「ディスタフの側」と呼ぶのも、紡ぐことが女の仕事だったことの名残である。
この作業を速くしたのが、車輪で錘を回す糸車である。大きな車輪を手で回すと、その回転が紐を通して小さな錘に伝わり、車輪と錘の直径の比だけ速く回る。

糸車がどこで生まれたのかは、はっきりしていない。候補は中国とインドである。中国では北宋の画家王居正の『紡車図』に車輪の付いた装置が描かれているが、これは繊維を紡ぐのではなく、できた糸を撚り合わせる道具だとする見方もある。インドでは糸車をチャルカーと呼び、「輪」を意味するサンスクリット語の「チャクラ」に由来するとされる。11世紀から13世紀の文献に言及が現れる。糸車は綿を紡ぐのにとくに向いており、インドは当時、世界で最も多くの綿布を産する土地だった。
糸車は、イスラーム世界を経て13世紀にヨーロッパへ届いたと考えられている。早い記録の一つが、13世紀末のドイツの町シュパイアーの織物職人の規約で、車で紡いだ糸を縦糸に使ってはならない、と定めている。当初の糸車の糸は、手で紡いだ糸より弱かったのである。それでも速さは手紡ぎの数倍あり、改良が重ねられていく。16世紀には、足踏みで車輪を回す型が広まった。両手が空き、フライヤーと呼ばれるU字形の枠が、撚りをかけながら同時に糸を巻き取る。それまでは撚ることと巻くことを交互にしていたが、それが一続きの作業になり、生産はさらに増えた。
18世紀のイギリスで、糸紡ぎは機械の時代に入る。先に速くなったのは織るほうだった。1733年、ジョン・ケイが飛び杼を作り、一人の織工が幅の広い布を速く織れるようになると、今度は糸が足りなくなった。紡ぐ側の機械化が求められ、1764年ごろのハーグリーヴズのジェニー紡績機は一人で何本もの錘を回し、1769年のアークライトの水力紡績機は水車の力で強い糸を作り、1779年のクロンプトンのミュール紡績機はその二つの長所を合わせた。紡ぐ仕事は家の中から工場の中へ移り、女性や子どもがそこへ通うようになる。産業革命は、何千年も女性の手の中にあった仕事を機械に置き換えることから始まった。やがてその工場を満たす綿の多くは、アメリカ南部で綿繰り機によって種を除かれ、奴隷の労働で育てられたものになっていく。

機械で作った安い綿布は世界中に売られ、インドにも流れ込んだ。インドの綿花がイギリスへ送られ、ランカシャーの工場で布になって、インドへ売り返される。かつて世界の綿布を担ったインドの手紡ぎと手織りは、それで大きな打撃を受けた。
20世紀、その糸車が再び表舞台に戻ってくる。1920年代、ガンディーはチャルカーをインド独立運動の中心に据えた。イギリスの機械織りの布を買わず、自分たちで紡いだ糸で織った手織りの布カーディーを着る。糸車は誰でも使え、村に現金の収入をもたらす。自分の手で自分の着るものを作ることは、自国のものを使う運動「スワデーシー」の、目に見える形だった。ガンディー自身が毎日決まった時間を紡ぐことにあて、獄中でも会議の席でも糸車を回した。国民会議派は一時期、党員に一定の長さの手紡ぎの糸を納めることを求めている。1930年の塩の行進と並んで、糸車は非暴力の抵抗の象徴になった。

1921年ごろ、国民会議派の旗の中央にはチャルカーが描かれた。1947年、インドが独立して国旗を定めるとき、中央の糸車はアショーカ王の石柱に刻まれた24本の輻を持つ法輪に置き換えられた。一つの党の象徴を国の旗にすることは避けられたのである。それでも、旗の真ん中に輪が残った。
人類が最も多くの時間を費やしてきた作業の一つが、糸を紡ぐことである。だが、その記録はほとんど残っていない。書き残す人々が、それを書くに値することとは考えなかったからだ。日々の、女の仕事だった。残っているのは、世界中の土の中から出てくる無数の紡輪と、言葉の中に沈んだ「紡ぐ女」の名残と、一つの国の旗の真ん中に置かれた輪である。