ジャンヌ・ダルク
概要
19歳で火刑になった農民の娘。百年戦争の流れを変え、後にフランスの象徴になる。
関わったできごと(1)
百年戦争1337年 · 流れを変えた本文
ジャンヌ・ダルクは1412年ごろ、フランス東部、ロレーヌとシャンパーニュの境にある村ドンレミに生まれた。父は村の有力な農民で、家は貧しくはなかった。読み書きはできず、のちの裁判で、母から主の祈りと信仰を教わったと答えている。生まれた頃のフランスは百年戦争のさなかにあった。1415年にアザンクールの戦いでフランス騎士が大敗し、1420年のトロワ条約で、イングランド王ヘンリー5世がフランス王位の継承者とされた。王太子シャルルは相続から外され、ロワール川の南に追いやられていた。北フランスはイングランドと、それと結んだブルゴーニュ公の手にあった(ブルゴーニュ公の宮廷)。

裁判での本人の証言によれば、13歳ごろから声を聞くようになった。大天使ミカエル、聖カタリナ、聖マルガリータの声で、やがて王太子を助けてフランスから敵を追い出せ、と告げるようになったという。1428年、16歳ごろ、近くの守備隊の町ヴォクルールへ行き、隊長ボードリクールに王太子のもとへ送ってほしいと頼んだ。最初は追い返されたが、繰り返し訪ねるうちに町の人々の支持を集め、翌年の初め、男の服を着て、数人の護衛とともに敵地を横切り、ロワール河畔のシノン城へ向かった。
1429年3月、シノンで王太子に会った。なぜ会えたのかは、いまも十分には説明できていない。王太子の側は追い詰められていた。ロワール川の要所オルレアンは前年の秋からイングランド軍に包囲され、ここが落ちれば南への道が開く。乙女がフランスを救うという予言が出回っていたことも、受け入れられた理由に挙げられる。群臣に紛れた王太子を一目で見分けた、という有名な場面は、後世に整えられた話の面が強い。王太子はすぐには信じず、ポワティエで聖職者たちに彼女の信仰と素性を調べさせ、処女であることも確かめさせてから、軍に加わることを許した。

4月末、ジャンヌは補給の部隊とともにオルレアンに入った。指揮権は正式には与えられていなかったが、白い旗を掲げて先頭に立ち、慎重な将たちを突き動かした。5月7日、川の南岸の砦トゥーレルを攻めたとき、肩を矢で射抜かれながら戦場に戻ったと伝えられる。翌8日、イングランド軍は包囲を解いて退いた。7か月続いた包囲が、到着から10日足らずで終わった。続く6月、ロワール沿いの町を次々に取り戻し、パテーの戦いではイングランドの野戦軍を破った。
ジャンヌが急いだのは、王太子をランスで戴冠させることだった。歴代の王が聖別を受けてきた町で、そこで聖油を受けなければ、王を名乗っても正統と見なされにくい。ランスは敵地の奥にあったが、途中の町は抵抗せずに門を開き、1429年7月17日、王太子はシャルル7世として戴冠した。ジャンヌは旗を持って祭壇の近くに立っていた。その旗がなぜそこにあるのかと問われ、苦労をともにしたのだから名誉を受けるのは当然だ、と答えたと、のちの裁判記録にある。

頂点はそこまでだった。9月のパリ攻撃は失敗し、ジャンヌは脚を射られた。王の側近たちはブルゴーニュ公との交渉に傾き、戦いを続けたいジャンヌとの間に溝ができた。1430年5月23日、ブルゴーニュ派に包囲されたコンピエーニュの救援に出て、退却の殿を務めているところを捕らえられた。身柄はイングランド側に1万リーヴルで売り渡された。シャルル7世が救い出そうと動いた形跡は見つかっていない。
1431年1月、イングランド支配下のルーアンで教会の裁判が始まった。裁判長はイングランドに近いボーヴェ司教ピエール・コーションで、学識ある聖職者たちが何か月も彼女を問い詰めた。神の恩寵の中にいると思うかと問われ、いないのなら神がそこに置いてくださるように、いるのならそのままにしてくださるように、と答えた。どちらに答えても罪に問える問いを、そうしてかわしている。罪状は、声を神からのものと言い張る異端と、教会の命に背いて男装を続けたことに絞られていった。

5月24日、火刑の準備を見せられたジャンヌは、誤りを認める文書に署名し、終身の禁固に減刑された。ところが数日後、再び男の服を着ていた。牢で女の服を取り上げられたため、あるいは看守から身を守るためだったと、のちの証言は伝えている。一度捨てた異端に戻った者として、5月30日、ルーアンの旧市場広場で火刑になった。19歳だった。十字架を目の前に掲げてほしいと頼み、炎の中でイエスの名を呼び続けたと、居合わせた人々が証言している。灰はセーヌ川に流された。
その後、フランスは巻き返し、1453年に戦争は事実上終わる。ノルマンディーを取り戻したシャルル7世は、自分を王にした者が異端として焼かれたままでは困る立場にあった。1455年に母の訴えという形で名誉回復の裁判が始まり、1456年、最初の判決は無効とされた。死から25年後のことになる。このとき集められた百人以上の証言が、ドンレミでの少女時代やオルレアンの場面を伝える史料になった。処刑の裁判記録と名誉回復の裁判記録が両方残ったため、ジャンヌは中世の庶民としては異例なほど本人の言葉が分かる人物になっている。
近代になって、ジャンヌはフランスという国の象徴になった。ナポレオン・ボナパルトは国民の団結の手本として称え、19世紀には共和派も王党派も教会も、それぞれの立場で彼女を自分の側に引き寄せた。カトリック教会は1909年に列福し、1920年に列聖した。死後500年近くたっている。声の正体については、信仰の立場から、病の症状として、あるいは時代の心性として、さまざまに論じられてきたが、決着はついていない。