ワンガリ・マータイ
概要
木を植える運動を女性たちと始め、環境と民主化を結びつけた。アフリカの女性で最初のノーベル平和賞。
関わったできごと(1)
グリーンベルト運動AD1977年 · 当人本文
ワンガリ・ムタ・マータイは1940年4月1日、イギリス領ケニアの中央高地、ニエリ地方のイヒテ村に、キクユ人の農家の娘として生まれた。子どものころの村には、イチジクの大木がそびえ、その根元から清水が湧き、オタマジャクシが泳いでいた。母から、イチジクの木は神聖なものだから切ってはいけないと教わった。後年の運動の原点として、彼女が何度も語った風景である。
当時、農村の女の子が学校へ行くことは珍しかった。兄に勧められ、母がそれを許して、8歳で小学校に入った。カトリックの寄宿学校で学んでいたころ、ケニアはマウマウ団の反乱の時代に入り、イギリス植民地政府は反乱を抑えるため、多くのキクユ人を囲い込んだ村に移した。故郷の母も、その暮らしを強いられたと伝えられる。

1960年、独立を前にしたケニアの若者をアメリカの大学へ送る奨学金の計画が始まった。のちに大統領となる上院議員ジョン・F・ケネディの一族の財団も資金を出し、「ケネディ空輸」とも呼ばれた。マータイはこれに選ばれ、カンザス州の女子大学で生物学を、ピッツバーグ大学で修士課程を学んだ。帰国したとき、ケニアはすでに独立していた(ケニアの独立)。ドイツでの研究を経て、1971年にナイロビ大学で獣医解剖学の博士号を取った。東アフリカの女性で初めての博士号である。のちに同じ大学で、女性として初めて学科長にもなった。
大学で教えるかたわら、ケニア女性全国評議会の活動に加わり、農村の女性たちの声を聞いた。訴えは、薪が採れない、水が濁る、畑の土が流れて作物が育たない、栄養のある食べ物が手に入らない、という日々の困りごとだった。植民地の時代から、森は切り払われて茶やコーヒーの畑や、外来の木の植林地に変わっていた。女性たちの困りごとの根は同じところにある、とマータイは考えた。木が無いのである。

1977年の世界環境デー、マータイはナイロビの公園に7本の苗木を植えた。これがグリーンベルト運動の始まりである。村の女性たちに苗木の育て方を教え、育った苗木が植えられて根づくと、一本ごとにわずかな謝礼を払った。森林の専門家は、学校を出ていない女性に苗木は育てられないと言ったが、女性たちはやってのけた。運動はケニア全土に、やがてアフリカの他の国々に広がり、植えた木は5000万本を超えるとされる。
私生活では、苦しい時期を過ごした。1960年代末に結婚した夫は政治家だったが、1970年代の終わりに離婚の訴えを起こした。夫は法廷で、妻は教育がありすぎ、強すぎ、成功しすぎ、頑固すぎて手に負えないと述べたと伝えられる。判決を批判したマータイは法廷侮辱の罪で数日投獄された。夫から姓を使うなと言われ、つづりにaを一つ足して「マータイ」と名乗るようになった。
木を植えることは、やがて政治と結びついた。1980年代のケニアは、モイ大統領の一党支配のもとにあった。1989年、政府はナイロビの中心のウフル公園に、与党系の新聞社が入る60階建ての高層ビルを建てる計画を進めた。市民が憩うただ一つの大きな緑地だった。マータイはこれに公然と反対し、政府系の議員たちから、いかれた女だと国会で罵られた。だが海外の出資者が手を引き、計画は取りやめになった。1992年には、政治犯の釈放を求めて公園でハンガーストライキをする母親たちに加わり、警官隊に殴られて気を失った。逮捕と投獄は一度ではなかった。土地の使い方を問うことは、誰がそれを配っているかを問うことになる。森を払い下げて政権の取り巻きに配る政治と、彼女は正面からぶつかった。
2002年、複数政党による選挙で一党支配が終わると、マータイは国会議員に当選し、環境担当の副大臣となった。2004年、ノーベル平和賞を受けた。アフリカの女性として初めてである。授賞理由には、持続可能な開発と、民主主義と、平和が並んだ。木を植えることが平和の賞に値するのかという声もあったが、資源をめぐる争いが紛争を生むのだと、彼女は受賞の講演で語った。翌年来日したマータイは、日本語の「もったいない」という言葉に出会って感銘を受け、資源を大切にする合言葉として世界に広めた。
2011年9月25日、マータイはがんのため、ナイロビで71歳で死んだ。木を切って棺を作らないでほしいという本人の望みで、遺体は竹やパピルスで編んだ棺に納められた。