イサベル1世
概要
レコンキスタを完了させ、コロンブスの航海に出資した。同じ年にユダヤ人を追放している。
関わったできごと(2)
レコンキスタの完了AD1492年1月2日 · カスティーリャ女王コロンブスの到達AD1492年10月12日 · 航海を支援した本文
イサベルは1451年4月22日、カスティーリャ王国の小さな町マドリガルで、国王フアン2世の娘として生まれた。母はポルトガルの王女である。3歳のとき父が死に、異母兄がエンリケ4世として王位を継いだ。イサベルは母と弟とともに宮廷から離れた町で育てられた。母は夫の死後、心を病んだとされる。王位からは遠い王女として、信仰の篤い、慎ましい教育を受けた。

エンリケ4世の治世は乱れていた。王は大貴族たちを抑えられず、王妃が生んだ娘フアナは、王の寵臣の子ではないかという噂を立てられた。反国王派の貴族たちはイサベルの弟アルフォンソを王に担ぎ上げたが、弟は1468年に急死した。貴族たちは今度はイサベルを担ごうとしたが、イサベルは兄が生きている間は王を名のらないと拒み、代わりにエンリケ4世と協定を結んで、王位の継承者として認めさせた。
王位を継ぐ王女の結婚は、国の行方を決める。兄はポルトガル王との縁組を進めようとしたが、イサベルは自分で相手を選んだ。隣国アラゴンの王子フェルナンドである。1469年、フェルナンドは商人に変装してカスティーリャに入り、二人はバリャドリッドでひそかに結婚した。またいとこの間柄で、教会の特別な許しが必要だったが、その許可状は偽造されたものだったともいわれる。兄王の怒りを買い、イサベルは継承者の地位を取り消された。

1474年12月、エンリケ4世が死ぬと、イサベルはセゴビアで、すぐさま自らカスティーリャの女王として即位を宣言した。王の娘フアナを推す貴族たちと、フアナと結婚したポルトガル王がこれに反対し、継承をめぐる戦争になった。イサベルとフェルナンドは1476年のトロの戦いで優位に立ち、1479年の条約でポルトガルにフアナの王位の主張を取り下げさせた。同じ年、フェルナンドがアラゴンの王位を継いだ。カスティーリャとアラゴンは、それぞれ別の王国のまま、夫婦の君主のもとに並ぶことになる。二人は勅令や文書に名を並べて署名し、紋章も一つに組み合わせた。のちのスペインの土台である。
内戦で荒れた国内を立て直すため、イサベルは都市の治安部隊を組織して盗賊を取り締まり、大貴族が王領から奪っていた収入を取り戻した。王権を強める政策を、自ら馬に乗って各地を回りながら進めた。

宗教は、イサベルにとって統治の柱だった。カスティーリャには、14世紀末の迫害以来、キリスト教に改宗したユダヤ人とその子孫(コンベルソ)が多く暮らしていた。彼らがひそかにユダヤ教を守っているという疑いが広まると、イサベルとフェルナンドは教皇の許しを得て、王権のもとに置かれた新しい異端審問所を設けた。1480年に活動を始めた審問所は、密告と拷問で多くの人々を裁き、火刑に処した。審問所の長官となったトルケマダは、その厳しさで名を残している。
1482年から、イベリア半島に残った最後のイスラーム国家、グラナダ王国との戦いが始まった。10年にわたる戦いで、イサベルは兵站と資金の調達を受け持ち、前線の陣営に自ら姿を見せて兵を励ました。1492年1月2日、グラナダの最後の王が都を明け渡し、アルハンブラ宮殿に両王の旗が掲げられた(レコンキスタの完了)。8世紀のイスラーム勢力の侵入から始まった、キリスト教徒による国土回復の戦いが、ここで終わった。降伏の条件では、ムスリムの信仰と慣習は守られると約束されていた。

同じ1492年3月、両王は、キリスト教に改宗しないユダヤ人に、4か月以内に国を出るよう命じる勅令を出した。改宗者がユダヤ教に引き戻されるのを防ぐという理由だった。改宗して残った者も多かったが、国を去った人々の数は、数万から十数万まで推定に幅がある。彼らはポルトガルや北アフリカ、オスマン帝国などへ散っていった。その子孫はセファルディムと呼ばれる。
さらに同じ年の4月、イサベルはジェノヴァ出身の航海者コロンブスと協約を結び、西へ向かう航海に出資することを決めた。コロンブスは何年も前から援助を求めていたが、学者たちの委員会は、彼の見積もる大洋の幅は小さすぎると退けていた。その見立ては正しかったが、グラナダ陥落の後、イサベルは計画を認めた。王冠の宝石を質に入れて資金を作ったという話は有名だが、実際には、アラゴンの財務官ルイス・デ・サンタンヘルらが王室と商人の資金を用立てたもので、宝石の話は後世の伝説とされる。10月、コロンブスはカリブ海の島に着いた(コロンブスの到達)。1494年には、新しく見つかる土地をポルトガルと分け合うトルデシリャス条約が結ばれた。

1496年、教皇は二人に「カトリック両王」の称号を贈った。しかしイサベルの統一の方針は、やがてグラナダの約束も覆した。1499年からムスリムへの改宗の強制が始まり、反乱を経て、1502年にはカスティーリャのムスリムにも改宗か国外退去かが命じられた。一つの信仰によって国をまとめる、というのがイサベルの考えだった。
晩年は不幸が続いた。期待をかけた一人息子フアンは1497年に19歳で死に、長女とその子も相次いで死んだ。王位を継ぐことになった次女フアナは、心の病を抱えていた。末娘のカタリナはイングランドに嫁ぎ、のちにヘンリー8世の最初の妃となる。1504年11月26日、イサベルは53歳で死んだ。遺言では、新大陸の先住民をキリスト教徒として正しく扱い、不当に害してはならないと書き残している。孫のカール5世のもとで、スペインはやがてヨーロッパと新大陸にまたがる帝国となる。統一を成し遂げた女王として称えられる一方、異端審問とユダヤ人追放の責任を負う君主として、その評価は今も分かれている。