人物

マルガレーテ・シュッテ=リホツキー

Margarete Schütte-Lihotzky
AD1897年1月23日 – AD2000年1月18日(享年102)
オーストリア重要度 4

概要

ウィーン。応用美術学校に入った最初の女性の一人。第一次大戦後の食糧難の中で、労働者の住宅と菜園の設計から出発した。1926年、フランクフルト市の建築家エルンスト・マイに招かれ、公営住宅の台所を設計した。1930年から5年間、ソ連で都市計画に従事。1940年、反ナチスの抵抗運動のためウィーンで逮捕され、死刑を求刑されて懲役15年、4年半を獄中で過ごした。戦後は東側で仕事をしたため、オーストリアで長く冷遇された。102歳まで生きた。

関わったできごと(1)

フランクフルト・キッチンAD1926年 · 設計した

本文

マルガレーテ・リホツキーは1897年1月23日、オーストリア=ハンガリー帝国の都ウィーンに生まれた。父エルヴィンは帝国の官吏で、自由な考えを持つ教養人だった。家には文化人が出入りし、娘は早くから絵と建築に引かれた。

1915年、彼女はウィーンの応用美術学校の建築の課程に入った。建築を学んだ女性として、最も早い一人である。第一次世界大戦で男子学生が兵隊に取られ、席が空いていたからでもあり、戦争のおかげで入れたのだと彼女はのちに苦い口調で語っている。指導した建築家オスカー・ストルナドは、大聖堂や大広間を設計するより、労働者の住まいをやりなさい、と彼女に勧めた。彼女はその言葉に従った。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

学生のころ、彼女はウィーンの労働者の住宅を実地に調べて歩いた。一部屋に一家族がひしめき、昼のあいだだけベッドを他人に貸して家賃の足しにする。窓のない部屋、共同の水道と便所。卒業の設計に、彼女は労働者の住宅を選んだ。

戦争に負けて帝国が崩れると、ウィーンは飢えた。食べ物も燃料もない。市民たちは郊外の空き地に勝手に小屋を建て、畑を作った。生きるためである。社会民主党が市政を握った「赤いウィーン」は、彼らを追い出さず、整った住宅地に作り替える道を選んだ。彼女はこの仕事に加わった。装飾は罪だと唱えた建築家アドルフ・ロースも市の住宅の部局にいて、彼女とともに働いた。彼女は住民の家に入り、話を聞き、図面を引いた。そして台所を見た。当時の労働者の家には独立した台所がないか、あっても台所が暮らしのすべての場になっていた。かまどの煙と洗濯物の中で、食べ、眠った。

1926年、建築家エルンスト・マイが、彼女をフランクフルトに招いた。マイは市の建築の責任者として、数年で1万戸を超える公営住宅を建てる計画を進めていた。29歳の彼女に与えられた仕事は、そのすべての住戸に入れる標準の台所の設計だった。

彼女は、工場で作業の動きを測る方法を台所に持ち込んだ。家事をする人の動きを追い、歩数を数え、何をどこに置けば無駄に歩かずにすむかを考えた。こうして生まれたのが、広さ6.5平方メートルほどの細長い台所である(フランクフルト・キッチン)。作り付けの棚、小麦粉や豆を入れる取っ手つきのアルミの引き出し、座ったまま作業できる回転椅子、動かせる照明、流しと調理台とこんろが作業の順に並ぶ配置。鉄道の食堂車の厨房も手本の一つだった。戸棚の扉は青く塗られた。ハエが青い色を嫌うと考えられていたからだ。小麦粉の引き出しは、虫が寄りつかないとされたオークの木で作られた。この台所は約1万戸に取りつけられた。もっとも、評判はよいことばかりではなかった。細長い台所は一人しか立てず、家族が手伝えない、母親が料理しながら子どもを見ていられない、という不満も住民から出た。台所を一人の主婦の作業場として閉じ込めてしまった、という批判は、のちのフェミニズムの側からも向けられている。彼女はフランクフルトで、子どもの体の大きさに合わせた家具を持つ幼稚園や学校の設計にもかかわった。1927年、同じ事務所の建築家ヴィルヘルム・シュッテと結婚している。

フランクフルト・キッチンに関わる図版:Frankfurterkueche
フランクフルト・キッチンWikimedia Commons Public domain

1930年、彼女は夫とともに、マイの率いる建築家の一団に加わってソ連へ渡った。第一次五か年計画のもと、何もない土地に工業都市をまるごと作るという前例のない計画である。彼女はウラルの製鉄の町マグニトゴルスクなどで、主に学校と幼稚園を手がけた。一団は初め歓迎されたが、やがて役所の壁と資材の不足と政治の空気に阻まれ、マイは1933年に去った。彼女は残ったが、大粛清が始まり、外国人の技術者が次々に捕らえられるなかで、1937年にソ連を出た。

ソ連にいたあいだに日本と中国も訪ね、日本の住まいに強い関心を持った。その後、彼女はイスタンブールの美術学校で教えた。トルコには、ナチスから逃れたドイツやオーストリアの知識人が多く集まっていた。1938年のオーストリア併合で故郷はナチス・ドイツに飲み込まれていた。1939年、彼女はオーストリア共産党に入った。

1940年12月、彼女は党の連絡役としてウィーンにひそかに戻った。地下の抵抗組織と連絡を取る任務である。だが組織の中には密告者がいた。1941年1月、彼女はゲシュタポに捕らえられた。裁判で検事は死刑を求め、判決は懲役15年だった。同じ裁判で裁かれた同志は処刑された。彼女はバイエルンの刑務所で4年あまりを過ごし、紙も鉛筆もろくにない中で、ほかの囚人と語り、建築の構想を練り続けた。1945年4月、アメリカ軍が刑務所を解放した。

ウィーンに戻った彼女のもとに、仕事は来なかった。共産党員だったからである。冷戦のオーストリアで、公共の建物の注文は彼女に回らなかった。彼女は東ドイツやブルガリア、キューバ、中国など東側の国々で仕事をし、ウィーンで実現したのは幼稚園などわずかな建物だけだった。建築家として建てたかった、という彼女の嘆きが残っている。

風向きが変わったのは1970年代の後半からだった。女性建築家の歴史を見直す動きの中で、フランクフルトの台所が再び注目された。彼女はソ連の日々と抵抗運動の日々の回想を書き、獄中の毎日を細かく記録した。1980年にはウィーン市の建築賞を受けた。1988年には国の名誉勲章を辞退している。ナチスの軍歴を問われていた大統領ヴァルトハイムの手から受けるのを拒んだのだった。

1997年、100歳を迎えた彼女のために、ウィーンの応用美術館が大きな回顧展を開いた。2000年1月18日、彼女はウィーンでインフルエンザのため死んだ。103歳の誕生日の5日前だった。

生涯に建てられた建物は多くない。しかし29歳で設計した小さな台所は、世界中の台所の形を変えた。調理台が途切れずに続くこと、収納が壁に作り付けられていること、流しとこんろが作業の順に並んでいること。いまどの家の台所にも、その考えが入っている。彼女がそれを設計したのは、効率のためだけではなかった。女性が家事から解き放たれなければ、外で働き、社会に出ることはできない、と彼女は考えていた。当の本人は、生涯ほとんど料理をしなかったと語っている。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1897年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →