マルガレーテ・シュッテ=リホツキー
概要
ウィーン。応用美術学校に入った最初の女性の一人。第一次大戦後の食糧難の中で、労働者の住宅と菜園の設計から出発した。1926年、フランクフルト市の建築家エルンスト・マイに招かれ、公営住宅の台所を設計した。1930年から5年間、ソ連で都市計画に従事。1940年、反ナチスの抵抗運動のためウィーンで逮捕され、死刑を求刑されて懲役15年、4年半を獄中で過ごした。戦後は東側で仕事をしたため、オーストリアで長く冷遇された。102歳まで生きた。
関わったできごと(1)
フランクフルト・キッチンAD1926年 · 設計した本文
1897年1月23日、ウィーン。
父エルヴィンは、オーストリア=ハンガリー帝国の官吏。リベラルで、教養のある家庭。母リリーは、家に文化人を集めた。
(家族の親しい友人に、作曲家グスタフ・マーラーと、その妻アルマがいた。)
**入学**。
1915年、**ウィーン応用美術学校(クンストゲヴェルベシューレ)**の建築科へ。
**女性として、最初期の一人**である。
(第一次大戦で男子学生が徴兵され、席が空いた。彼女は「戦争のおかげで入れた」と、後に苦く語っている。)
指導教官は**オスカー・ストルナド**。彼が彼女に言った。
「**大聖堂やホールを設計するより、労働者の住まいをやりなさい**」。
彼女は、その助言に従った。
**課題**。
学生時代、彼女はウィーンの労働者の住宅を、**実地に調査**した。
見たもの——一部屋に一家族。ベッドを昼間だけ他人に貸す「ベッド賃借人(ベットゲーアー)」。窓のない部屋。共同の水栓と便所。
彼女の卒業設計は、**労働者住宅**だった。1917年、賞を得た。
**ジードルンク運動**。
第一次大戦後、オーストリアは崩壊した。食糧がない。燃料がない。
ウィーンの市民が、郊外の空き地に**勝手に小屋を建て、畑を作った**(「野生の入植地」)。生きるためである。
社会民主党が政権を取ったウィーン市(「赤いウィーン」)は、これを追い出さず、**整った住宅地に作り替える**方針を採った。
彼女は、この仕事に加わった。**アドルフ・ロース**(「装飾は罪悪である」の建築家)が市の住宅局にいて、彼女と働いた。
彼女は、住民の家に入り、話を聞き、図面を引いた。
そして、**台所を見た**。
(当時の労働者の住宅では、独立した台所がない。あるいは、台所が生活のすべての場所になっている。竈の煙、洗濯物、そして食事と睡眠が、同じ空間で行われる。)
彼女は、**移動できる小さな台所ユニット**の試作を始めた。
**フランクフルト**。
1926年、建築家**エルンスト・マイ**が、彼女をフランクフルトに招いた。29歳。
マイは、フランクフルト市の建築局長として、5年で1万2000戸の公営住宅を建てる計画を進めていた。
彼女に与えられた仕事——**その全戸に入る、標準の台所**。
彼女は、**動作研究**の手法を持ち込んだ。主婦の動きを撮影し、歩数を数え、配置を決めた。
**6.5平方メートル**。作り付けの収納。18個のアルミの引き出し。回転椅子。可動の照明。青い作業台。
**約1万台**が作られた。
(彼女はまた、フランクフルトで、幼稚園と学校の設計にも関わった。子どもの寸法に合わせた家具を設計している。)
**ソ連へ**。
1930年、彼女はエルンスト・マイの一団(「マイ旅団」)とともに、**ソ連へ渡った**。
第一次五カ年計画。ゼロから工業都市を建設する、前例のない規模の計画。
彼女が働いた場所——**マグニトゴルスク**(ウラル南部の製鉄都市)、**オルスク**、そしてシベリアのケメロヴォ。
彼女の担当は、主に**学校と幼稚園**だった。
(マイの一団は、当初は歓迎されたが、次第に、現地の官僚と、資材の不足と、そして政治的な状況に阻まれた。1933年、マイは去った。)
彼女は、1937年まで残った。
そして、**スターリンの大粛清**が始まった。
外国人技師が次々に逮捕された。彼女は、出国した。
**その後の旅**。
日本(1937年。彼女は日本建築に強い関心を持ち、後に日本の住宅について書いている)、中国、そして**イスタンブール**。
トルコで、彼女は建築の教職に就いた。ここに、ドイツから逃れた多くの反ナチスの知識人がいた。
1939年、彼女は**オーストリア共産党**に入党した。
**抵抗運動**。
1940年12月、彼女は、党の連絡員として、**ウィーンに潜入した**。
ドイツに併合されたオーストリアで、地下の抵抗組織と連絡を取る任務。
**1941年1月22日、入国から25日後、ゲシュタポに逮捕された**。
(組織の内部に、密告者がいた。)
拷問を受けた。裁判で、**死刑を求刑された**。
判決は、**懲役15年**。
(同じ裁判で、彼女の同志エルヴィン・プシュマンは処刑された。)
**4年半**、バイエルンの**アイヒャッハ刑務所**で過ごした。
彼女は、獄中で、他の囚人と話し、そして——**建築の構想を考え続けた**。紙も鉛筆も、ほとんどなかった。
1945年4月、アメリカ軍が刑務所を解放した。
**戦後**。
彼女はウィーンに戻った。
そして、**仕事が来なかった**。
理由は、明白である。彼女は**共産党員**だった。冷戦下のオーストリアで、公共の建築の発注は、彼女に回らなかった。
(1948年、ウィーン市が計画していた住宅の仕事を、彼女は外された。)
彼女は、東側で働いた。東ドイツ、ブルガリア、そして**キューバ**、**中国**。
1950年代、彼女はウィーンに幼稚園を2つ設計した。それが、オーストリアでの数少ない実現作である。
(後年、彼女は言っている。「私は、建てる機会を与えられなかった。私は、建築家として生きたかった」。)
**再発見**。
1970年代後半から、女性建築家の歴史の見直しと、フランクフルト・キッチンの再評価が始まった。
1980年、彼女の回想録『**モスクワからの回想 1930-1937**』。
1985年、『**抵抗運動の回想**』。彼女は、獄中の日々を、詳細に書いた。
**顕彰**。
1980年、ウィーン市建築賞。
1988年、彼女は**オーストリア科学芸術名誉勲章**の授与を、**辞退した**。
理由——授与に関わる政府に、元ナチス党員だった人物がいたから。
(後に、彼女は別の賞を受けている。)
1997年、100歳。ウィーンの応用美術館(MAK)が、大規模な回顧展を開いた。
**2000年1月18日**、ウィーンで死去。
**102歳**。誕生日の5日前だった。
インフルエンザだった。
**残ったもの**。
彼女は、生涯に、多くの建物を建てられなかった。
しかし、彼女が29歳のときに設計した、6.5平方メートルの台所は、世界中の台所の形を変えた。
作業台が連続していること。収納が壁に作り付けられていること。流しと竈が、作業の順に並んでいること。
いま、どの家の台所にも、その考え方が入っている。
そして、彼女がそれを設計した理由は、効率のためだけではなかった。
「**女性が家事から解放されなければ、社会に出ることはできない**」。
彼女自身は、生涯、料理をほとんどしなかった。