メアリー・ウォートリー・モンタギュー
概要
公爵の娘。父の書斎で独学しラテン語を身につけた。決められた縁談を拒んで駆け落ちした。1715年に天然痘にかかり、顔に痕が残り、まつ毛を失った。弟は同じ病で死んでいる。夫の大使赴任でイスタンブールに住み、現地の女性が行う接種を見て、五歳の息子に施した。帰国後、娘にも施し、宮廷を説得して普及させた。書簡集は当時の紀行文学として高く評価され、東方の女性を憐れむ視線への反論にもなっている。
関わったできごと(1)
人痘接種AD1721年8月9日 · 持ち込んだ本文
メアリー・ピアポントは1689年5月、イングランドの名門の家に生まれた。父イーヴリン・ピアポントは、のちにキングストン公爵となる貴族である。母は彼女が幼いうちに死に、娘はしばらく祖母に育てられてから父の家に戻った。

兄弟には家庭教師がついたが、娘にはつかなかった。そこで彼女は父の書斎にこもり、辞書を頼りに独りでラテン語を身につけた。10代の初めには、古代ローマの詩人オウィディウスを訳そうとしていたと伝えられる。自分は盗むようにして学んだ、という趣旨のことを、彼女はのちに書いている。
やがて父は、彼女の結婚相手を決めた。彼女はこれを拒み、1712年、エドワード・ウォートリー・モンタギューと駆け落ちした。父の目から見れば財産の釣り合わない相手だった。だがこの結婚も幸せとは言いがたく、夫婦はやがて離れて暮らすようになる。

1713年、弟が天然痘で死んだ。20歳だった。そして1715年12月、26歳の彼女自身がかかった。命は取りとめたが、顔には深いあばたが残り、まつ毛はすべて抜けて二度と生えなかった。宮廷でも指折りの美しさをうたわれた女性だった。天然痘は当時のヨーロッパで最も恐れられた病の一つで、かかった者の多くが死に、生き延びた者にも傷あとや失明を残した。
1716年、夫がオスマン帝国への大使に任じられ、彼女は幼い息子を連れてイスタンブールに移り住んだ。彼女は、当時のヨーロッパの男性旅行者には決して入れない場所に入った。女性たちの住まいと、女性の浴場である。それまでヨーロッパで書かれた東方の女性の姿は、ほとんどが伝聞と想像だった。

ソフィアの浴場で、彼女は何百人もの女性たちがくつろいでいるのを見た。そこには、自国の女性たちが見知らぬ相手に向けるような、さげすみの笑いもひそひそ話もなかった、と彼女は書いている。女性たちに勧められて服を脱ぎかけたとき、下に着けていたコルセットを見た彼女たちは、夫があなたをこの箱に閉じ込めているのか、と思ったらしい、とも。東方の女性は不自由で、自分たちは自由だ、というヨーロッパの思い込みを、彼女はひっくり返して見せた。当時としてはきわめて珍しい視線で、東方への偏見を論じる現代の研究でも、例外的な証言としてよく取り上げられる。
そしてイスタンブールで、彼女は天然痘を防ぐ方法を知った。1717年4月の友人への手紙に、彼女はこう書いている。私たちの国ではあれほど命取りで広まっている天然痘が、ここではまったく無害になっている。接種という方法があるからだ。毎年秋になると、老女たちが天然痘の膿を入れた木の実の殻を持って回り、子どもの腕の静脈を針で軽く傷つけて、ほんの少し膿を入れる。子どもは軽い熱を出して数日寝込むが、やがて治り、二度とかからない。彼女はこの方法が安全だと確信し、自分の息子に試すつもりだと書いた。そして、この有用な発明をイングランドに持ち帰れるなら医者たちに知らせたいが、彼らは収入の大きな部分を失うことになるから、そのために殉教する勇気はない、と皮肉を添えた。その皮肉は、のちに現実になる。

1718年3月、彼女は5歳の息子エドワードに接種を受けさせた。大使館の医師チャールズ・メイトランドが立ち会った。処置をしたのは土地の老女で、そのやり方が荒っぽかったので、メイトランドが途中から自分で引き継いだという。息子は無事に免疫を得た。
1721年、ロンドンで天然痘がはやった。帰国していた彼女は、メイトランドに頼んで3歳の娘に接種を受けさせ、宮廷の医師たちを呼んで経過を見せた(人痘接種)。ウェールズ公妃キャロラインが関心を持ち、まず死刑囚たちに接種して命を助ける約束をする実験が行われ、孤児たちでも試されたのち、1722年4月、公妃自身の王女たちが接種を受けた。王家が受けたことで、この方法はイギリスの上流の人々に広まっていった。

攻撃は激しかった。医者たちは、素人の、しかも女性の、異教徒の国から持ち込まれたやり方だとはねつけた。聖職者の中には、神の摂理に逆らうものだと説教する者もいた。彼女は名を伏せて新聞に反論を書き、イギリスの医者たちは血を抜いたり下剤をかけたりと余計な準備を重ねて、かえって危険にしている、トルコの女たちはただ刺すだけだ、と論じた。実際、接種を受けた人の中からも死者は出て、接種された人がまわりにうつす危険もあった。それでも、自然にかかるよりはずっと安全だった。
1739年、50歳の彼女は一人でイタリアへ渡った。若いイタリア人の文人アルガロッティへの思いが理由の一つだったとされる。それから20年あまり、イタリアとフランスで暮らし、夫とは二度と会わなかった。夫が1761年に死ぬと、翌年イギリスに戻り、1762年8月21日、乳がんのためロンドンで死んだ。73歳だった。

彼女がトルコから書き送った手紙は、死の翌年の1763年に出版された。家族は出版を止めようとしたが、写しがすでに出回っていた。ヴォルテールやサミュエル・ジョンソン、ギボンらが賞賛し、18世紀の英語の散文の傑作の一つに数えられている。一方、接種を受けた息子は、家出をくり返し、東方を放浪し、重婚や詐欺で騒ぎを起こし、母を嘆かせ続けた。
彼女がイギリスに持ち込んだ人痘の接種は、70年あまり後、医師ジェンナーが牛の病を使う、より安全な方法(ジェンナーの種痘)を考え出す下地になった。ジェンナー自身、少年時代に人痘の接種を受けている。そして1980年、天然痘の根絶宣言が出された。あばたを残した一人の女性が、異国の老女たちから学んだ知恵が、その長い道のりの入口にあった。