概要
アンコーナ近郊。技術学校に進んで工学を志し、医学部へ転じた。イタリアで最初期の女性医師の一人。精神科の助手として施設の子どもを見て、これは医学より教育の問題だと考えた。1907年、ローマのスラムで子どもの家を開いた。生涯独身とされたが、同僚との間に生まれた息子マリオを里子に出し、後に自分の共同研究者として迎えた。ムッソリーニと当初は協力し、後に決裂してイタリアを去った。インドで戦時中を過ごし、オランダで死んだ。
関わったできごと(1)
モンテッソーリの子どもの家AD1907年1月6日 · 始めた本文
1870年8月31日、イタリア東部**キアラヴァッレ**(アンコーナ県)。
父アレッサンドロは財務省の官吏(保守的で、伝統的な価値観の持ち主)。母レニルデは、教養があり、読書家で、娘の教育に熱心だった。
一人娘。
**進路**。
12歳、一家はローマへ移った。
彼女は、**男子ばかりの技術学校**に進んだ。当時、女子はほとんど行かない。
工学を志した。
そして、**医学**へ転じた。
**入学の困難**。
ローマ大学の医学部は、女子の入学を認めていなかった。
彼女は、拒否された。
(教育大臣グイド・バッチェッリに直接面会した、教皇レオ13世の口添えがあった、という話が伝わる。細部は確認できない。1892年に予備課程を修了し、1893年から医学部に在籍した。)
**学生時代**。
- 男子学生と一緒に、遺体の解剖実習をすることが、**風紀上、認められなかった**。
だから、彼女は、**授業の後、一人で、夜、解剖室で実習した**。
- 講義室には、男子学生が全員着席した後で入ることを求められた。 - 嘲笑と、嫌がらせがあった。
父は、彼女の進路に反対し続けた。
(後に、彼女が国際的な講演で称賛されるのを見て、和解したとされる。)
**1896年**、卒業。
イタリアで最初期の女性医師の一人である(「最初」とされることが多いが、彼女より前に数人いる)。
同じ年、ベルリンの**国際女性会議**に、イタリア代表として出席し、**男女同一賃金**を訴えた。
**精神科**。
ローマ大学の精神科クリニックの助手。
彼女の仕事は、施設に収容された子どもを診ることだった。
当時「白痴児(deficienti)」と呼ばれた、知的障害のある子どもたち。
彼らは、何もない部屋に置かれていた。
彼女は、彼らが床に落ちたパン屑を指でつまんで遊んでいるのを見た。
**彼らは、感覚を使いたがっている**。
**イタールとセガン**。
彼女は、フランスの二人の医師の著作を読んだ。
**ジャン=マルク=ガスパール・イタール**——「アヴェロンの野生児」ヴィクトールを、5年かけて教育しようとした人物。
**エドゥアール・セガン**——知的障害児のための、**感覚を訓練する教具**の体系を作った人物。
彼女は、セガンの著作を、**手で書き写した**。フランス語から、イタリア語へ。
「一語ずつ自分の手で書くことによって、その意味を、ゆっくり考えるために」。
**成果**。
1899〜1901年、彼女は国立の障害児教育教員養成学校(Scuola Ortofrenica)を指導した。
セガンの教具を改良し、子どもたちに使わせた。
そして——彼女が教えた子どもの何人かが、**公立学校の読み書きの試験に合格した**。健常児と同じ試験に。
イタリアの教育界で、話題になった。
**彼女自身は、そこで疑問を持った**。
「もし、障害のある子が、この方法でここまで到達できるのなら——
**健常な子どもたちは、いま、どれほど抑えつけられているのだろうか**」。
**1907年1月6日**。
ローマのスラム、サン・ロレンツォ地区。
**カーサ・デイ・バンビーニ**(子どもの家)。
3〜6歳の子ども、50〜60人。
(彼女自身は、その場に常駐していない。彼女は方法を設計し、指導し、観察した。日常の運営は、訓練を受けていない住民の女性が担った。)
そこで彼女が観察したこと——**集中**、**繰り返し**、**自己修正**、そして**秩序への欲求**。
**世界へ**。
- 1909年、最初の著作。 - 1912年、英訳がアメリカでベストセラー。 - 1913年、最初の国際訓練コース(ローマ)。 - 1915年、サンフランシスコ万博の**ガラスの教室**。
**息子**。
1898年、彼女は男児を産んだ。
父は、精神科クリニックの同僚**ジュゼッペ・モンテサーノ**。
二人は、結婚しなかった。
(理由については、複数の説がある。彼の家族の反対。当時のイタリアで、既婚の女性が職業を続けることが困難だったこと。そして、彼女の職業上の立場。)
当時、**未婚の母**であることが知られれば、彼女は医師としても、教育者としても、活動を続けられない。
子ども(**マリオ**)は、ローマ郊外の里親に預けられた。
彼女は、時々、彼を訪ねた。しかし、**母とは名乗らなかった**。
(マリオが、彼女を母と知ったのがいつかは、明確でない。10代半ばに引き取られ、当初は「甥」として紹介された、とされる。)
その後、マリオは、彼女の**最も近い協力者**になった。共に世界を回り、訓練コースを運営し、彼女の著作を編集した。
1952年の彼女の死後、彼が国際モンテッソーリ協会を率いた。
**ファシズム**。
1922年、ムッソリーニが政権を取った。
当初、彼は彼女を支援した。理由——**識字率の向上**が、彼の政策の一つだったから。
(イタリアの識字率は、当時、地域によって極端に低かった。)
彼女は、その資金で学校を広げた。1924年、彼女はムッソリーニに会っている。
**1934年、決裂した**。
理由——政権が、子どもたちに**ファシストの制服**を着せ、**忠誠の宣誓**をさせることを要求した。
彼女は、拒否した。
学校は閉鎖され、彼女はイタリアを去った。
(同じ年、ドイツでも、ナチスが彼女の学校を閉鎖した。彼女の著作が焼かれた。)
**インド**。
1939年、彼女は講演のためインドへ渡った。
そこで、第二次大戦が始まった。
イタリアは枢軸国である。イギリス領インドで、彼女は**敵国人**になった。
**軟禁された**(アディヤール)。息子マリオは、**抑留された**。
(彼女の70歳の誕生日に、インド総督が、彼女への贈り物として、息子を釈放した。)
彼女は、インドに**7年**留まった。
マドラス(チェンナイ)、そして山間のコダイカナルで、数千人の教師を訓練した。
(この期間に、彼女の思想は、より宇宙論的な方向へ深まった。「**コスミック教育**」——子どもが、宇宙全体の中での人間の位置を理解する、という構想。
彼女は、ガンディーとタゴールに会っている。)
**晩年**。
1946年、ヨーロッパへ戻った。オランダに住んだ。
1949年、1950年、1951年、**ノーベル平和賞に推薦された**(受賞していない)。
1951年、最後の国際会議(ロンドン)。
**1952年5月6日**、オランダの**ノールトウェイク・アーン・ゼー**で、脳出血により死去。**81歳**。
(彼女はその直前、アフリカのガーナへ行く計画を立てていた。息子が、高齢を理由に止めた。彼女は「では、私はもう役に立たないのか」と言った、とされる。)
**墓**。
ノールトウェイクのカトリック墓地。
彼女の遺志により、イタリアには運ばれなかった。
墓碑に、こう刻まれている。
「**私は、愛する全能の子どもたちに願う。私とともに、人間と世界に平和を築くことに、力を尽くしてほしい**」。
**イタリアの紙幣**。
1990年から2002年(ユーロ導入まで)、イタリアの**1000リラ紙幣**に、彼女の肖像が印刷されていた。
裏面には、子どもの家の教室と、子どもたちが描かれている。