人物

マリア・モンテッソーリ

Maria Montessori
AD1870年8月31日 – AD1952年5月6日(享年81)
イタリア重要度 4

概要

アンコーナ近郊。技術学校に進んで工学を志し、医学部へ転じた。イタリアで最初期の女性医師の一人。精神科の助手として施設の子どもを見て、これは医学より教育の問題だと考えた。1907年、ローマのスラムで子どもの家を開いた。生涯独身とされたが、同僚との間に生まれた息子マリオを里子に出し、後に自分の共同研究者として迎えた。ムッソリーニと当初は協力し、後に決裂してイタリアを去った。インドで戦時中を過ごし、オランダで死んだ。

関わったできごと(1)

モンテッソーリの子どもの家AD1907年1月6日 · 始めた

本文

マリア・モンテッソーリは1870年8月31日、イタリア東部アンコーナ県の町キアラヴァッレに生まれた。父アレッサンドロは財務の役所に勤める官吏で、保守的な考えの持ち主だった。母レニルデは本をよく読む教養ある人で、一人娘の教育に熱心だった。一家はやがてローマに移った。

マリア・モンテッソーリ
マリア・モンテッソーリWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

13歳のころ、彼女は男子ばかりの技術学校に進んだ。当時、女子はまず行かない学校である。初めは技師になるつもりだったが、やがて医学をめざすようになった。だがローマ大学の医学部は、女性の入学を想定していなかった。彼女は粘り強く働きかけ、1890年代の初めに医学を学ぶ道を開いた。教育大臣にじかに会った、教皇の口添えがあった、という話も伝わるが、細部は確かめられない。

学生生活は楽ではなかった。男子学生と一緒に裸の遺体を解剖するのは風紀に反するとされ、彼女は授業のあと、夜に一人で解剖室にこもって実習した。講義室には男子学生がみな席に着いてから入るよう求められ、あざけりや嫌がらせも受けた。父は娘の進路に反対し続けた。1896年、彼女は医学部を卒業した。イタリアで最初の女性医師とよく言われるが、実際には彼女より前に何人かいる。それでも、最も早い女性医師の一人だった。同じ年、ベルリンの国際女性会議にイタリア代表として出席し、女性も男性と同じ賃金を受け取るべきだと訴えた。

マリア・モンテッソーリ(1880年頃)
マリア・モンテッソーリ(1880年頃)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

卒業後、彼女はローマ大学の精神科の診療所で助手として働いた。仕事の一つは、施設に入れられた知的障害のある子どもたちを診ることだった。子どもたちは、何もない部屋に置かれていた。ある日、彼女は子どもたちが床に落ちたパンくずを指でつまんで遊んでいるのを見た。この子たちは、手や感覚を使いたがっているのだ、と彼女は考えた。これは医学より教育の問題ではないか。

彼女は、フランスの二人の医師の仕事を学んだ。森で見つかった「アヴェロンの野生児」ヴィクトールを何年もかけて教育しようとしたイタール。知的障害のある子どものために、感覚を育てる教具を体系として作ったセガン。彼女はセガンの著作を、一語一語の意味を考えるため、フランス語からイタリア語へ自分の手で書き写したという。

マリア・モンテッソーリ(1913年)
マリア・モンテッソーリ(1913年)Wikimedia Commons Public domain

1900年前後、彼女は障害のある子どもを教える教員を養成する学校の指導にあたった。セガンの教具を改良して子どもたちに使わせたところ、何人かが、ふつうの子どもと同じ公立学校の読み書きの試験に合格した。教育界は驚いた。だが彼女自身は別の問いを抱いた。障害のある子がこの方法でここまで来られるなら、ふつうの子どもたちは、いまの学校でどれほど押さえつけられているのだろうか。

1907年1月6日、ローマの貧しい地区サン・ロレンツォの集合住宅の一室で、「子どもの家」が開かれた(モンテッソーリの子どもの家)。昼間、親が働きに出ているあいだ、放っておかれる3歳から6歳の子ども50人ほどを預かる場所である。彼女は方法を組み立て、指導し、観察した。日々の世話は、住民の女性が担った。

そこで彼女が見たのは、子どもが自分で選んだ作業に深く集中し、同じことを何十回もくり返し、自分で誤りに気づいて直し、秩序を好む姿だった。子どもの体に合わせた小さな机と椅子、自分で扱える教具、整えられた棚。大人が教え込むのではなく、整えられた環境の中で、子どもが自分で育つのを助ける。フレーベルと幼稚園から70年ほど後のことである。

教具は、一つの性質だけを取り出して感じ取れるように工夫されていた。太さだけが違う円柱を穴にはめていくもの、大きさの違う立方体を積む塔、紙やすりで形を切り抜いた文字を指でなぞる板。誤りがあれば、子ども自身が気づけるように作られている。子どもには、ある力を身につけるのにとくに敏感な時期がある、と彼女は考えた。文字の板を指でなぞっていた子どもたちが、ある日突然、次々に字を書き始めて夢中になる。彼女はそれを、書くことの爆発と呼んだ。

1909年に最初の著書を出すと、その方法はまたたく間に世界へ広がった。1912年に英訳がアメリカで評判になり、電話の発明者アレクサンダー・グラハム・ベルと妻メイベルは、彼女の方法を広める協会をアメリカに作った。翌年ローマで最初の国際的な講習会が開かれた。講習会には各国から教師が集まり、オランダやイギリス、スペインなどに次々と学校が生まれた。1915年のサンフランシスコ万国博覧会では、ガラス張りの教室で子どもたちが学ぶ様子が公開された。

彼女には、長く伏せられていたことがある。1898年、彼女は男の子を産んだ。父親は精神科の診療所の同僚ジュゼッペ・モンテサーノだった。二人は結婚しなかった。未婚の母と知られれば、医師としても教育者としても道を断たれる時代だった。息子マリオはローマ近郊の里親に預けられ、彼女は時おり会いに行ったが、母とは名乗らなかった。マリオが10代の半ばになったころに引き取り、初めは甥として周りに紹介したとされる。のちにマリオは彼女の最も近い協力者になり、ともに世界を回り、講習会を運営し、母の死後は国際モンテッソーリ協会を率いた。

1922年にローマ進軍で権力を握ったベニート・ムッソリーニは、初め彼女の方法を後押しした。読み書きのできる人を増やすことが政権の課題だったからである。だが1930年代、政権が子どもたちにファシストの制服を着せ、忠誠を誓わせるよう求めると、彼女は拒んだ。学校は閉ざされ、彼女はイタリアを去った。ナチス・ドイツでも彼女の学校は閉鎖され、著書は焼かれた。

1939年、彼女は講演のためインドへ渡った。そこで第二次世界大戦が始まった。イタリアは敵国で、彼女は軟禁され、マリオは抑留された。70歳の誕生日に、インド総督は贈り物として息子を釈放したという。彼女はインドに7年とどまり、マドラスや山あいのコダイカナルで何千人もの教師を育てた。この時期、子どもに宇宙全体の中での人間の位置を感じ取らせる「宇宙的教育」の考えを深めた。ガンディーやラビンドラナート・タゴールとも親しく交わった。

戦後はオランダに住み、1949年から3年続けてノーベル平和賞の候補に挙げられた。1952年5月6日、オランダの海辺の町ノールトウェイクで、脳出血のため死んだ。81歳だった。その直前、彼女はアフリカのガーナへ行く計画を立て、高齢を案じる息子に止められていた。遺志により遺体はイタリアに運ばれず、ノールトウェイクの墓地に葬られた。墓碑には、愛する力ある子どもたちに、自分とともに人と世界の平和を築いてほしい、という願いが刻まれている。1990年から2002年まで、イタリアの1000リラ紙幣には彼女の肖像が刷られていた。いま世界には、彼女の名を冠した学校が何万もある。

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