ヴィクトリア女王即位60年

概要
帝国が世界の4分の1を占めた時期の頂点。その17年後に第一次大戦が始まる。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
ヴィクトリア女王AD1819年5月24日–AD1901年1月22日 · 当人本文
ヴィクトリア女王は1837年6月、18歳で即位した。1896年9月、その在位は祖父ジョージ3世を抜いて、イギリスの君主として最も長くなった。女王はそのときの祝いを断り、翌年の即位60年に合わせて祝うことを望んだ。10年前の1887年には即位50年の祝典が開かれ、ヨーロッパの王侯が招かれていた。今度の祝典は趣が違った。植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンの考えで、祝いの主役はヨーロッパの王家ではなく、帝国そのものとされた。
1897年6月22日、ロンドンの空は晴れ渡った。バッキンガム宮殿を出た女王の馬車は、およそ10キロの道のりを、テムズ川の南岸を回ってセント・ポール大聖堂へ向かった。行列の前後を固めたのは、帝国の各地から呼び寄せられた兵たちだった。カナダの騎馬警官、オーストラリアやニュージーランドの騎兵、インドの藩王国から来たターバン姿の槍騎兵、香港の中国人の警官隊、キプロスの憲兵、ボルネオの警官、西インド諸島やアフリカの部隊。沿道には数十万の人々が詰めかけた。
78歳の女王は脚が弱り、大聖堂の長い階段を上ることができなかった。そこで感謝の礼拝は大聖堂の正面の階段の前で、馬車に乗ったままの女王を囲んで行われた。その朝、女王は宮殿から、電信で帝国の隅々へメッセージを送った。心から愛する国民に感謝する、神の祝福を、という短い言葉である。電信の線は海の底のケーブルで世界を結び(大西洋横断電信ケーブル)、言葉は数時間のうちにカナダにもインドにもオーストラリアにも届いた。女王はその夜の日記に、これほどの歓呼を受けた者はかつていなかったと思う、と書いている。

数日後、ポーツマスの沖のスピットヘッドでは観艦式が開かれ、戦艦や巡洋艦など160隻を超える軍艦が何列にも並んだ。しかも、これらはどれも本国の海域にいた艦で、世界の海に散らばった艦隊を呼び戻したわけではなかった。世界最強の海軍の力を見せつける光景だった。
この時期の大英帝国は、世界の陸地のおよそ5分の1、人口のおよそ4分の1を占めていたとされる。インドを中心に、カナダ、オーストラリア、南アフリカ、そしてアフリカ分割で手に入れたアフリカの広い地域。「日の沈まない帝国」という言葉が誇らしげに語られた。祝典に合わせて、カナダやオーストラリアの植民地などの首相たちがロンドンに集まり、帝国の結びつきをどう強めるかを話し合った。

だが祝典の光の陰には、ほころびもあった。同じ1897年、インドでは飢饉が広がり、ボンベイから広がったペストが猛威をふるっていた(第三次ペスト大流行)。ペストの対策として家々に強制的に踏み込んだ役人たちは住民の怒りを買い、祝典の夜、プネーで、総督府の祝賀会から帰る途中のペスト対策の責任者が、インドの若者に撃たれた。南アフリカでは、前年に植民地側の者がボーア人の国に武装して攻め込んで失敗した事件があり、緊張が高まっていた。それはまもなくボーア戦争として噴き出し、小さな農民の国を相手に帝国が何年も手こずることになる。
祝典のさなか、帝国を讃える詩を書くと期待されていた詩人ラドヤード・キプリングは、ある詩を書き上げて新聞『タイムズ』に送った。7月に載った「退場の歌」と題するその詩は、勝利を祝うものではなかった。われらの昨日の栄華も、古代のニネヴェやテュロスと同じになる、と詠み、万軍の主なる神よ、なおも我らと共にあれ、我らが忘れることのないように、と繰り返した。帝国の歌い手とされたキプリングが、絶頂の年に、帝国もいつか滅びた古代の都と同じ運命をたどると警告したのである。
女王は1901年1月に世を去った。それから13年後、1914年に第一次世界大戦が始まる。カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、インドは、本国の宣戦によって自動的に戦争に加わり、何十万もの兵を送った。オーストラリアとニュージーランドの兵がガリポリで多くの命を落としたことは(ガリポリの戦い)、両国が自分たちを一つの国民として意識するきっかけになった。大きな犠牲を払った自治領は発言力を強め、1931年には本国と対等な立場の国として認められていく。

帝国の版図が最も大きくなったのは、第一次世界大戦のあと、敗れたドイツやオスマン帝国の領土の一部を委任統治領として得たときである。だがその時には、帝国を支えていた力と自信はすでに揺らいでいた。即位60年の祝典は、大英帝国が自らの力を最も晴れやかに誇った日として記憶されている。そして同じ年に書かれたキプリングの詩のほうが、その後を言い当てていた。