人物

推古天皇

Empress Suiko
AD554年 – AD628年(享年74・推定)
倭重要度 3

概要

記録に残る日本最初の女性の天皇。聖徳太子と蘇我馬子とともに、国の形を整えた時代の中心にいる。

関わったできごと(2)

推古天皇の即位AD592年 · 当人冠位十二階AD603年(推古11年) · 天皇

本文

554年、欽明天皇の娘として生まれた。名は額田部皇女。母の堅塩媛は大臣の蘇我稲目の娘で、のちに権勢をふるう蘇我馬子は母の兄弟、つまり叔父にあたる。6世紀の倭の王権は、大王家と、それを支える有力な豪族たちの連合だった。蘇我氏は渡来の人々を配下に置いて財政と外交を握り、新しく伝わった仏教を受け入れる側に立っていた。

推古天皇像(土佐光芳筆、1726年、大阪・永福寺)
推古天皇像(土佐光芳筆、1726年、大阪・永福寺)Wikimedia Commons Tosa Mitsuyoshi · Public domain

18歳のころ、異母兄の敏達天皇の妃となり、のちに后に立てられた。二男五女をもうけたとされる。585年に敏達が死ぬと、王位をめぐる争いが始まった。『日本書紀』によれば、敏達の殯(もがり)の宮に、王位をねらう穴穂部皇子が押し入ろうとし、皇后だった彼女に迫ろうとした。敏達の寵臣・三輪逆が門を閉ざして防いだが、のちに殺されている。

次の用明天皇は2年で死に、587年、蘇我馬子と物部守屋が戦った(蘇我氏と物部氏の戦い)。勝った馬子が立てた崇峻天皇は、やがて馬子と対立し、592年、馬子の差し向けた者に殺された。大王が臣下に殺されるという前代未聞の事件の後、彼女が飛鳥の豊浦宮で即位した(推古天皇の即位)。数えで39歳だった。記録に残る日本最初の女性の天皇になる。王族の男子たちのあいだで争いが起きるのを避けるために、先の大王の后であり、蘇我氏の血を引く彼女が選ばれた、と考えられている。

蘇我氏と物部氏の戦いに関わる図版:Shotoku killing Moriya no Omuraji
蘇我氏と物部氏の戦いWikimedia Commons Tsukioka Yoshitoshi · Public domain

在位36年は、当時としては長い。その間に、冠位十二階(冠位十二階)、十七条憲法(憲法十七条)、遣隋使の派遣(遣隋使)、仏教の受容が置かれる。594年には仏教を盛んにせよという詔が出され、豪族たちは競って寺を建てた。馬子の飛鳥寺、厩戸皇子の斑鳩寺(法隆寺)が、この時代に建てられている。

ただし記紀は、これらを甥の厩戸皇子(聖徳太子)と蘇我馬子の事績として書く。『日本書紀』は、即位の翌年に厩戸を皇太子とし、政務をすべて任せたと書く。彼女自身の判断がどこにあったかは、ほとんど記録されていない。

天皇系図 26~37代
天皇系図 26~37代Wikimedia Commons nnh · CC BY 2.5

数少ない例外の一つが、遣隋使に持たせた国書をめぐる記述になる。607年、小野妹子が隋に届けた国書は、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」で始まる文面で、中国の皇帝と対等を主張するもので、煬帝を怒らせた。南北朝を統一したばかりの隋(隋の中国再統一)は、それでも高句麗との戦いを控えて倭との関係を断たず、翌年に使者を送ってきた。ただし、この国書の記事は中国側の『隋書』にしかなく、しかも『隋書』は倭王を男性の名で書き、その妻のことまで記している。女性の天皇の治世の記事として、どう読むべきかは分かっていない。

もう一つの例外は、晩年の場面である。624年、叔父の馬子は、自分の一族の本拠である葛城の地を自分に与えてほしいと願い出た。天皇は断った。自分は蘇我の出で、大臣は叔父である。大臣の言うことは何でも聞いてきた。だが、自分の代にこの地を失えば、後の世に愚かな女帝と言われ、大臣もまた不忠と言われるだろう、と答えたと『日本書紀』は書く。外戚の言いなりではなかった姿が、ここに見える。

推古天皇の絵画
推古天皇の絵画Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

622年に厩戸皇子が、626年に馬子が死に、天皇は最後まで残った。628年、数えで75歳で死んだ。死の床で、二人の皇族を呼んで、後継について言葉を残したが、その言葉の解釈をめぐって争いが起き、結局は蘇我蝦夷が推す田村皇子が舒明天皇として即位した。もう一方の山背大兄王は、のちに蘇我入鹿に攻められて一族とともに死ぬことになる。天皇は、このところ五穀が実らず民が飢えているので、自分のために大きな陵を造らず、先に死んだ息子の竹田皇子の墓に葬るように、と遺言したと伝えられる。

女性天皇はこの後、江戸時代までに8人10代立つ。多くは継承が定まらないときの中継ぎだった、とされてきた。だが近年は、推古のように、自ら政治の判断を担った女性の君主として見直す研究も増えている。古代の国の仕組みが整っていく時代の真ん中にいたのは、記録の中では脇役に置かれたこの女性だった。

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