産科鉗子と、出産の職の交代
概要
出産は、長く女性の領分だった。産婆が取り上げ、男は部屋に入らない。ユグノーの亡命者チェンバレン家が、難産で赤子を引き出す鉗子を考案した。彼らは、それを100年以上、家族の秘密にした。金箔を貼った大きな箱で運び込み、産婦の目を布で覆い、他の者を部屋から出して使った。器具を持つ男性の外科医が、次第に産婆の仕事を奪った。器具は命を救ったが、その独占が、どれだけの死を放置したかは分からない。1813年、家の床下から、古い鉗子が見つかった。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
近代まで、ヨーロッパの出産は女性だけの場で行われていた。取り上げるのは産婆で、近所の女性たちが集まって手を貸した。英語で噂話を意味する「ゴシップ」は、もともと洗礼の立会人を指す言葉で、それが出産に立ち会う女性たちを指すようになり、やがて彼女たちのおしゃべりの意味に移ったとされる。男は部屋に入らない。夫も入らず、医師も呼ばれなかった。
外科医が呼ばれるのは、もう手の施しようがなくなったときだった。子が産道で死んでいれば、母を救うために鉤で引き出す。母が死にかけていれば、子を救うために腹を切る。どちらにしても、外科医が来ることは死の知らせに近かった。それまでの器具は、生きた子を取り出すための道具ではなかったのである。

産婆は年長の産婆に付いて経験から技を覚えた。多くの地域で教会が産婆に許可を与えていた。生まれた子が死にそうなとき、その場で洗礼を授ける役目があったからである。産婆は共同体の中で重んじられる存在だった。かつては産婆が魔女として大量に処刑されたと説明されることがあったが、この見方は1970年代に広まったもので、その後の研究では支持されていない。処刑された人々の記録に産婆が特に多いわけではなく、むしろ産婆は告発の場で証言する側に立つことが多かった。
1569年、フランスのプロテスタントであるユグノーの外科医ウィリアム・チェンバレンが、迫害を逃れて一家でイングランドへ渡った。彼は二人の息子にどちらもピーターという名を付けたので、兄弟は大ピーター、小ピーターと呼び分けられる。兄弟はロンドンで外科医として、また産科の施術者として名を上げた。この一家が、十六世紀の末から十七世紀の初めごろに、難産の子を生きたまま引き出す鉗子を作り出した。考案したのは兄の大ピーターとされることが多い。

鉗子は、匙のような形をした二枚の刃からなる。一枚ずつ別々に差し入れて、子の頭を両側から包むようにはさみ、それから二枚を組み合わせて引く。頭を傷つけずに、詰まった子を引き出すことができる。
一家はこの器具を公にしなかった。大ピーターから小ピーターへ、その息子のピーターへ、さらにその子のヒューへと、百年以上にわたって家の中だけで受け継いだのである。往診のときの振る舞いは周到だった。金箔を貼り彫刻を施した大きな木の箱に器具を入れ、二人がかりで運び込む。手のひらに載るほどの器具を大きな箱に入れたのは、中身を推し量らせないためだったとされる。部屋からは産婆も家族も出し、産婦には目隠しをして、下半身を布で覆ったまま手探りで操作した。外にいる者には、鈴や物音で何か複雑な処置が行われているように思わせたとも伝えられる。

一家は器具だけでなく、出産の場そのものを握ろうともした。1616年ごろには小ピーターらが、ロンドンの産婆を自分たちの監督のもとで一つの団体にまとめようとし、1630年代には彼の息子で医師となったピーターも同じような企てを起こした。いずれも、産婆たちが当局に反対の請願を出したことで退けられている。
彼らのおかげで、難産から助かる母子は確かに増えた。だが同じ時代の同じ町で、ほかの産婆や外科医が扱った難産では、母と子が死に続けていた。技術はあったのに、それは一つの家に閉じ込められていた。この器具の物語の核心はそこにある。

1670年、小ピーターの孫にあたるヒュー・チェンバレンはパリへ渡り、フランスの宮廷に秘密を売り込もうとした。当代きっての産科医フランソワ・モーリソーは、くる病で骨盤が変形した三十八歳の初産の女性を彼に委ねた。きわめて困難な症例である。ヒューは三時間あまり試みたが子を引き出せず、母も子も亡くなった。モーリソーはこの経緯を自著に書き残している。売り込みは失敗した。ヒューはその後、オランダの医師に秘密を売ったともいわれ、そのとき渡したのは二枚の刃の片方だけだったという話まで伝わっているが、確かなことは分からない。
十八世紀の前半には、鉗子の存在と仕組みは知られるようになり、各地の産科医が自分なりの型を発表し始めた。子の頭の丸みに合わせた湾曲に加えて、骨盤の曲がりに合わせた湾曲を付ける改良が、フランスのルヴレやイギリスのスメリーらによって進められた。

秘密の器具そのものが姿を現したのは、ずっと後のことである。1813年、かつてチェンバレン家が住んだイングランド東部エセックスの屋敷、ウッダム・モーティマー・ホールで、床下の隠し場所から古い鉗子がいくつも見つかった。手紙や硬貨も一緒に出てきた。これらの鉗子は、いまロンドンの王立産科婦人科学会が所蔵している。
鉗子の登場は、出産の担い手が入れ替わる流れと重なっていた。外科の器具を扱うことは外科医の職分とされ、産婆には許されていなかった。器具が要る難産では、必ず男性の外科医を呼ばなければならない。十七世紀後半のフランスの宮廷で、王の愛人の出産に男性の医師が立ち会ったことが、上流の家で男性の産科医を呼ぶ流行の始まりになったともいわれる。医師は産婆より高い報酬を取ることができ、大学も医師の団体も男性のものだった。こうして十八世紀から十九世紀にかけて、「男の産婆」と呼ばれた男性の医師が、やがて産科医として出産の場に入ってきた。
産婆の側からの反論もあった。1760年、ロンドンの産婆エリザベス・ニヒルは助産の技術を論じた本を書き、器具は必要のない場合にまで使われすぎていると批判した。器具を使う訓練を受けた者は、器具を使いたがる。彼女のこの指摘は、その後の産科の歴史の中で何度も裏付けられることになる。鉗子の使用も、のちには帝王切開も(帝王切開で母が生きる)、医学上の必要を超えて増えた時期が繰り返し訪れた。
十九世紀には別の危険も明らかになった。ウィーンの病院で、医師が受け持つ病棟の産褥熱による死亡率が、産婆の病棟よりずっと高かったのである。医師たちが解剖の後、手を洗わずに産婦を診ていたためだった(ゼンメルワイスの手洗い)。二十世紀に入ると、出産の場は家から病院へ移り、アメリカでは1900年に五パーセントに満たなかった病院での出産が、1960年代にはほぼすべてになった。母親の死亡率は劇的に下がったが、その主な理由は器具よりも、消毒と輸血、抗生物質の普及にあった。
1970年代からは、出産の過剰な医療化への批判と、助産師を見直す動きが広がった。イギリスでは二十世紀初めに産婆の免許制度が作られている(産婆に免許を)。いま世界保健機関は、危険の少ない出産では助産師が中心になって支える仕組みが母子のためによいという立場をとっている。器具を持つ男性に押しやられた産婆の仕事は、消えずに、形を変えて戻ってきた。