人物

マララ・ユスフザイ

Malala Yousafzai
AD1997年7月12日 – ?
パキスタン重要度 3

概要

女子が学校へ行くことを主張して銃撃され、生き延びた。17歳でノーベル平和賞を受ける。

関わったできごと(1)

マララの銃撃AD2012年10月9日 · 撃たれた

本文

1997年7月、パキスタン北西部のスワート渓谷の町ミンゴラで生まれた。パシュトゥーン人の家で、名前は、19世紀のアフガニスタンで英国軍との戦いの最中に兵を励ましたと伝えられる伝説の女性マラライにちなんで、父が付けた。父のジアウッディンは、自分で私立の学校を開いて経営する教育者で、女の子にも男の子と同じ教育を、と考える人だった。女の子の誕生が男の子ほど喜ばれない土地で、父は娘の名を家系図に書き入れたという。

安倍晋三とマララ・ユスフザイ
安倍晋三とマララ・ユスフザイWikimedia Commons 内閣官房内閣広報室 · CC BY 4.0

スワートは雪山と果樹園に囲まれた美しい谷で、かつては観光地として知られていた。だが2007年ごろから、パキスタンのターリバーン運動と呼ばれる武装勢力が谷に入り込み、力で支配を広げた。音楽やテレビが禁じられ、反対する者は殺されて広場に晒された。2008年の暮れ、彼らは谷の女子が学校へ通うことを禁じると宣言し、従わない学校を次々に爆破した。

このとき、イギリスのBBCのウルドゥー語放送が、谷の暮らしを内側から伝えてくれる書き手を探していた。父の紹介で、11歳のマララが引き受けた。2009年の初めから、彼女は「グル・マカイ(ヤグルマギク)」という筆名で、学校に行けなくなる日々の不安、銃声の中で眠る夜、それでも本を読みたい気持ちを、日記として書いた。正体は伏せられていたが、この年、パキスタン軍がターリバーンを谷から追い払う作戦を行った後、彼女は実名でテレビに出て、女の子が学ぶ権利を語るようになった。アメリカの新聞が彼女と父を追った記録映像も作られた。2011年には、パキスタン政府から国民平和賞を贈られている。

名前が知られるにつれ、ターリバーンは彼女を標的にした。2012年10月9日、15歳のマララは、学校から帰るスクールバスの中にいた。バスを止めた男が乗り込んできて、マララはどれだと尋ね、彼女に向けて引き金を引いた。弾は左目の上から頭に入り、首を通って肩で止まった。一緒にいた友人二人も撃たれて傷を負った(マララの銃撃)。ターリバーンは犯行を認め、彼女が西側の考えを広めたからだと声明を出した。

マララの銃撃に関わる図版:Malala Yousafzai 2023 portrait 2x3
マララの銃撃Wikimedia Commons flowcomm · CC BY 2.0

マララは首都の病院で緊急の手術を受けた後、イギリスのバーミンガムの病院に運ばれた。頭蓋骨の一部を取り除き、耳の聞こえを取り戻す手術を受け、数か月かけて回復した。顔の左側の神経には麻痺が残った。事件は世界中で報じられ、パキスタン国内でも、女子教育を求める署名に多くの人が加わった。

2013年7月12日、16歳の誕生日に、マララはニューヨークの国連本部で演説した。テロリストは銃弾で私たちを黙らせられると思った、でも失敗した、と語り、一人の子ども、一人の教師、一冊の本、そして一本のペンが、世界を変えられる、と結んだ。この日は国連によって「マララ・デー」と名付けられた。同じ年、自伝『わたしはマララ』が出版された。

2014年、17歳でノーベル平和賞を受けた。ノーベル賞の歴史で最年少の受賞者である。同時に受賞したのは、インドで子どもたちを工場や農場の強制労働から救い出す活動を続けてきたカイラシュ・サティヤルティだった。ノーベル委員会は、ヒンドゥー教徒のインド人と、イスラーム教徒のパキスタン人が、教育と過激主義への反対という共通の闘いに加わることを重く見た、と授賞の理由に記している。両国は、1947年のインド・パキスタン分離以来、対立を続けてきた国どうしである。賞金は、父とともに設立したマララ基金を通じて、各国の女子教育の支援に充てられている。

インド・パキスタン分離に関わる図版:Brit IndianEmpireReligions3
インド・パキスタン分離Wikimedia Commons John George Bartholomew · Public domain

彼女はイギリスで学業を続け、2020年にオックスフォード大学を卒業した。2018年には、銃撃の後初めて、短い期間ながらパキスタンへ帰り、生まれ故郷のスワートも訪れている。2021年に結婚した。

一方で、母国での彼女の評価は割れている。若い世代や都市の人びとの間には、彼女を誇りとする声も多い。だが、彼女は西側に利用されている、パキスタンの悪い面ばかりを外国に広めている、という批判も根強く、事件そのものが仕組まれたものだという陰謀論まで出回った。彼女の自伝を学校で扱うことを禁じた私立学校の団体もあった。外国で英雄として讃えられるほど、国内では疑いの目も向けられる、という難しい立場に彼女は置かれてきた。

2013年10月11日、オバマ夫妻と娘マリアがオーバル・オフィスでユスフザイと面会
2013年10月11日、オバマ夫妻と娘マリアがオーバル・オフィスでユスフザイと面会Wikimedia Commons Pete Souza · Public domain

2021年、隣国アフガニスタンでターリバーンが再び権力を握ると(タリバンの復権)、小学校より上の女子の教育は再び禁じられた。マララは、アフガニスタンの女の子たちの学ぶ権利を取り戻すよう、各国の指導者に繰り返し訴えている。かつて自分の谷で起きたことが、いままた隣の国で起きている。彼女が11歳で書き始めた日記の問いは、まだ終わっていない。

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